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相対する薔薇

05 真の修羅場(終)


当たり前だが、八束は大人の飲み会というものに参加したことがなかった。
リビングのテーブルの上には、から揚げとか刺身とか、枝豆とか。
あと、買い物に行った人間の好みでイチゴ1パックがまるごと並んでいる。
(──そもそもこれ、自分参加していいんだろうか)
八束はなんとなく、そんな思いでお茶を飲んでいた。何となく、肩身が狭い。
大人二人で飲みたかったんじゃないだろうか?
そもそも何で、飲めないのに誘われてるんだ。
グラハムだって、長畑と飲みたいんじゃないのか?
俺、いらなくないか?
そんな事を考えていると、三分の一程度空いたグラスに再び、ペットボトルのお茶が足される。
横にいるグラハムが、八束が飲み干そうとするたびに足してくるので、なかなか減らない。
「あ、ありがとうございます……っていうか、いいですよもう」
「良くないよ。君、全然食べてないじゃない」
遠慮している間にも、皿にもりもりとから揚げなどを盛られた。案外、こういうときに世話を焼きたがる男のようだ。
「食べなきゃ背伸びないよ、君」
「……」
(この余計な一言さえなければ)
素直にいい人だな、と思えない事もない。
自分だって食べていないから伸びないとか、そういうわけではないのだ。
食べていても伸びないわけで、中学生の頃から身長が伸びるからと言われればなんだって食べてきたわけで、今だって食べて確実に背が伸びるものがあるなら、高い金を出してもいいと思っている自分がいるわけで──などと頭の中で、ぐるぐると渋い顔をしながら黙っていたのだが、唐突に伸びてきた大きな手に、頭をぐりぐりと撫でられた。
「……」
まるで、犬猫相手のような撫で方だった。
「あはは、君可愛いよねぇ。大人しい犬みたいで可愛い」
(全然褒められてねぇ……っ!)
飲み会と言われるものが始まって、小一時間。
グラハムはあまり見た目は酔っているようには見えないが、完全に態度が酔っ払いのそれ、になっていた。
長畑に助けを求める視線を送っても、「やっぱ君らは仲いいなぁ……」とと少々不満げに言われるだけなので、どうしたらいいのかわからない。
(何でそこで不満げなんだ……)
──まさか嫉妬されているのか? と思っていると、背後からがっしりと捕獲される。
思わず「ひい」と声が上がった。
「あの、飲み物こぼれますから……!」
「私猫派だけどさー。たまにはこういう素直に尻尾ぶんぶん振ってくれる子犬もいいなーって思うよ? まぁ可愛いならどっちでもいいんだけど。永智どっちが好き? 犬と猫」
(聞いちゃいねぇ!)
言葉を普通にスルーされて、八束は愕然とする。
淡々とグラハムが持参した日本酒を飲んでいる長畑は、グラハムの言葉に冷たい視線を向ける。
「僕は犬の方が好きです。……可愛がるのはいいけど、その子潰さないでね、酔っ払い」
「酔ってないよ。まだ酔ってないよー」
「酔ってる人間は、大体酔ってないって言うよね」
「カオスだ……」
グラハムが全く放してくれないので、八束は反抗を諦める。
がっしりと後ろから羽交い絞めにされており、振りほどく事もできない。
どうすることもできず、八束は撫で繰り回されるのに耐えていた。
こんな激しいスキンシップ、慣れていない。これが海外では普通なのか? とも思ったが、なんか違うはず、という思いもある。
そのとき、長畑と目が合った。

──ごめんね。でもこれ、どうにもならない感じだから、諦めて。

彼の視線はそう言っていた。
「……」
察して、八束も静かに頷く。
グラハムはおそらく、好きなものは猫可愛がりしたい人間なのだろう。
本当に可愛がりたいのは自分ではなく、隣にいる青年だというのは八束にもわかっている。
ただその青年はあまりべたべたするのが好きじゃないのか素直じゃないのか、あまりそう甘やかされる事を好まないので、反動が完全にこっちに向いた、ということなのだろう。
今の状況は、完全にとばっちりということになる。
だが、グラハムの絡みが長畑に向くよりはいい、と八束は思う。
目の前でごろごろ懐かれたら、多分自分は冷静ではいられない。
だが、何が楽しくて酔っ払い男に熱烈ハグされなくてはならないのか。
八束も、困惑と苛立ちがないわけではない。
「グラハムさん……あの、俺だってちっさい子供じゃないんですから……」
「あははは、君はシバイヌかな。小さくてころころしてる感じ。マメシバ! あ、でも肉ついてないよねー」
「腹揉まないでください!」
「……水かけたほうがいいなら言ってね。すぐ汲んでくるからね」
次第に長畑の声も完全に冷え切っていた。八束は顔から血の気が引く。
「え? 何、永智妬いてくれてるの? うれしい」
ぱぁ、と輝いた瞳を、グラハムが長畑に向ける。
「そのおめでたい頭を張り倒されたくなかったら、とっとと放してあげて。困ってるじゃない」
「君に張り倒されるなんて光栄過ぎる!」
「変態か!」
八束が思わずグラハムにその言葉を吐いたのは、人生で2回目のような気がする。

(性格に難があり過ぎるんだよ……)
八束は、今は床の上でべしゃりとつぶれている男を見る。
見た目だけなら、全然いい。
長畑とは顔の系統が違うが、男前だと言っても問題ないと思う。強面のくせに、話す日本語が少々子供っぽいのが難点だが。
グラハムは八束に抱きついて気が済むまで構い倒し、長畑をいつものように苛立たせつつ遊び、唐突に「寝る」と言ってこの状態になった。 長畑の言っていた「飲むだけ飲んだら寝るから」は間違ってはいなかったらしい。
絡むだけ絡んでくれたが。
「ちょっと、寝るなら布団敷くから、そこで寝ないで」
「えー。床冷たくて気持ちいいのにー」
「うち寒いんだから。凍死されても困るよ」
ほら起きて、と長畑は無理やりグラハムを引っ張り起こした。
「スーツは脱ぐ! 皺になるから!」
「やだ、君奥さんみたい」
「……顔面踏まれたいの?」
長畑の声はわりと本気だったのだが、グラハムはいつものようにへらへらと笑うだけだった。
「八束、僕は布団敷いてくるから、ちょっと待っててね。途中まで送る。歩きだけど」
「え?」
皿を片付けていた八束は驚いて、長畑を見た。
「大丈夫ですよ別に。まだ九時ですし、下に自転車ありますし……」
「一応ね。一人で帰すのも悪いから、送らせて」
長畑は柔らかく笑ってそう言った。
断る理由もないので、八束も頷く。
グラハムから脱がしとった上着を持って、長畑は部屋を出ていく。
「ほんと、まめだねぇ彼は」
胡坐をかくように座り込んで、グラハムがけらけら笑っている。
「ごめんね八束君。私あんまり、お酒強くなくてさぁ」
「……見りゃわかりますよ」
量はあまり飲んでいなかったように思える。最初の方からどんどんテンションがおかしくなっていったので、八束も「あ、この人駄目だ」と思っていた。
「あはは。まぁ、お酒自体は好きなんだけどねぇ。でも今日は、飲まずにはいられなかったというか」
グラハムはそのまま後ろにごろんと倒れる。
「私は、君に負けたのか。そう思うと、やっぱりちょっと悔しくて」
言葉の重さに反して、グラハムはけたけたと明るい声で笑っている。
「……」
八束は、返答に困った。
いきなりそんな事言われても、困る。
「八束君。君は私と今日、喧嘩するつもりだった? 私が君を責めたら、どうするつもりだった? そういうとこ警戒心なさすぎだよ。それで刺されるような人間、世の中にたくさんいるのにさ」
さんかくかんけーって怖いんだよーと、緊迫感のない声で、グラハムは語る。
「……そうなるかなと思って、どきどきしながら来ましたよ、俺も」
八束は深く息を吐きだした。ざっと手を洗って、蛇口を閉める。
自分の場合は刺される、ではなく「埋められるかもしれない」という事に怯えていたのだが。
「でも、グラハムさんならちゃんと、話を聞いてくれるんじゃないかって思ってて。……何言われても仕方ないかなとは思ってましたよ。俺だったら多分、相手を責めてたかもしれないですし」
立場が逆だったら、この男のような態度でいれたかどうかなんて、わからない。
何だかんだで、相手が大人だった。
だから思ったよりも修羅場になんてならなかった、それだけの事だ。
この飲み会のほうが、よっぽど修羅場だった。
「そりゃ、随分と買いかぶられてるなぁ私。でもまぁ、八束君。君はあんまり自分に自信がないみたいだけど、こうなっちゃった以上は責任とってもらわないと」
「責任ですか?」
八束は、床に寝っころがって天井を眺めている男に視線をやる。
「なんの……」
「永智をあんなにした。まぁ、いい意味でだけど。あの子はもう傷つきたくないから壁を造ったのに、君を入れるために扉をつくっちゃった。城で言えば外堀が埋まったようなものさ。良い事でもあるけど、それだけリスクも増えたって事、忘れないでほしいね。まぁ、もう子供じゃないからうまく取り繕うだろうけど」
──責任。
グラハムに言われて、八束は自分が今までとった行動を思い起こす。
随分子供じみた態度をとったこともあれば、泣きつくような事もした。
思い出せば死にたくなりそうな事も結構、自分はやらかしている。
だが、自分のそんな行動の裏で、長畑も自分と同じように悩んでいただろうし、自分の扱いに困ったこともあるだろう。
「迷惑」と言われなかったのは、何だかんだで長畑が優しいからだ、と八束は思っている。
八束が歳が離れた子供だったから、というのもあるだろう。
少々甘やかされているという自覚はある。
でも、自分に長畑が「流された」ということはないと思う。
彼の性格からいって、自身で納得しなければ応えてなんてくれなかったはずだ。
あの見かけによらず頑固な男が、自分に向き合ってくれている。
しかし彼を変えたというのなら、初めにそのきっかけを作った自分に、責任はあるのかもしれない。
「……安易に言ってるつもりは、ありません。最初に言っておきますが」
八束はグラハムの前まで来ると、正面に胡坐をかいて座った。
「俺はやっぱり、あの人の事が好きです。あの人も、応えてくれた。ただ俺がガキで馬鹿なんで、世話になってばっかりで、あの人の力になってあげれるような人間じゃ、まだないです。グラハムさんもイライラさせる事、あると思います」
「イライラはしてないよ。結構これでも面白がってる」
「なら、ちょっと安心しましたけど」
八束は少しだけ笑って、安堵の息をはく。
「俺の、大事な人です。親とか妹とか友達とか、他にも大事な人間たくさんいますけど、そういうのとは別にできた、俺の大事な人です。俺から裏切るなんて絶対にしたくない。そこだけは、誓ってもいいです」
「素直に恋人って言えばいいじゃんー。まだ恥ずかしいの? シャイだなぁ」
グラハムに笑われて、少し自分が赤面するのがわかった。
確かにまだ恋人です、と言うのは照れがあった。照れている事を、グラハムに見抜かれている事も恥ずかしかった。
ごまかすように、頭を掻く。
「そのあたりはもうちょい、修行つませてください。あと、できればグラハムさんには『負けた』なんて思わないでほしい」
「なんで」
「そもそも俺たち、勝負してたわけじゃない……長畑さんも素の姿ってのは、グラハムさんの方によく見せてると思うし。それはそれで、俺にとっては羨ましいですし、嫉妬もしますよ。勝ちとか負けとか言うのは、やめてください。また来てくださいよ。長畑さんも、多分喜ぶ。俺もたまになら……喜べる」
そう言うと、グラハムが寝転がったまま、八束を半眼でじっと見つめてきた。
(やばい、俺また生意気言ったのか?)
そう内心どきどきしていると、グラハムがにやり、と嫌な笑みを浮かべた。
「やだー。この子全然大きくなってないのに、なんか中身前より大人になってない? そんな事言われたら私ひゃっほう言いながらまた来るよ? しつこいよ?」
「身長の事は言わないで下さいよ……これでも一応気にしてますからね俺……」
大人になったとか、そんな事はちっとも思っていないので、わからない。
ちなみに背はこれでも夏から一センチ伸びてるんですが、と言おうとしたがやめておいた。
多分、気づいている者はほとんどいない。
「まぁ、伸びようが縮もうが君は君さ。可愛い可愛い」
「その可愛いってのも止めてくださいよ。柄じゃないし、気持ち悪いです」
「褒めてるんだけどなーこれでもー」
寝っころがったまま、グラハムは楽しそうに笑っている。
「全く、ご機嫌だねぇ君は」
布団を敷き終わったのか、長畑が部屋に入ってきた。
「うん。今夜の私はなかなか機嫌がいいよ」
「そりゃいいことだ。だったらそのまま寝ていい夢見てよ。ほら、立てる?」
床に転がったグラハムを、長畑が肩を貸しながら起こす。
「なんかさぁ。人生不条理だよねぇ」
「何が」
グラハムがやけにしみじみとした声で言うので、長畑が何事かと、その顔を見た。
「こんな綺麗な顔した優男がアルコール水扱いで、私がべろべろになってんの。普通逆でしょ? この子がお酒弱いなら、飲ましてあれこれできるのにねー」
「……」
どうしようもない一言に、部屋の空気が一層冷える。
「……今この人、さらりととんでもない事言ったよね」
長畑の言葉に、八束も無言で頷いた。
「八束、もうちょっと待ってて。この馬鹿布団に突っ込んでくるから」
「ちょっと、馬鹿ってひどくない?」
「外に放り出さないだけマシと思いなよ」
八束は長畑がグラハムを引きずるように連れて行くの見ながら、遠慮がちに手を振った。
長畑があれほどまでにげんなりした顔をしたのを見たのは、初めてのような気がする。

食器をあらかた片付けて、玄関で靴を履いていると、ようやく酔っ払いを布団に押し込む事に成功したのか、長畑がやってきた。
「大丈夫でした?」
いろんな意味で、と付け加えようか迷いつつ聞くと、長畑が苦笑いを浮かべた。
「寝た寝た。……ごめんね。君にあんなに絡むとは思わなかった」
「いや、まぁ、楽しかったですけどね」
大変なことも多くて疲れたが、終わってみればなんとなく楽しかったんじゃないだろうか、と思えてきた。
「君、学生服だけで寒くない?」
「寒いですけど、マフラーとかあるし大丈夫ですよ」
歩いてるうちに温まります、と言いながら八束は玄関を開ける。
ちらほらと大きめの雪が舞っているのに、その時初めて気づいた。
水分多めで積もる雪ではなさそうだが、冷えるはずだ。
長畑もダウンジャケットを引っ張り出してきて羽織ると、玄関の外を覗いた。
「結構降ってるね。君、遭難しないように」
「雪国じゃないですから、まぁ遭難まではいかないでしょうけど」
八束も笑いながら答えた。
自転車は、少し下った山道の入り口に置きっぱなしだ。それも回収していかねばならないが、手押しで帰ろう、と思う。
八束の家までは自転車や車ではすぐだが、歩きだと三十分以上かかる。
長畑もどこまで送ってくれる気なのかわからないが、ぶらぶらと二人で歩くというのもなかなかない事なので、八束は嬉しかった。
「ほんと、お酒強いんですね」
庭を抜けて道に降りて、隣を歩く長畑を見上げる。
人家が少ない為、夜の道の明かりとなるのは、電柱の電灯とまれにすれ違う車の光くらいだ。
薄暗い中でそう言うと、長畑が笑う。
「そうでもないけど。酔ってるときは酔ってる。あまり顔に出ないだけで。今日はあまり飲んでないし……それより、言いたい事は言えたの? 男同士の話があるって言ってたじゃない」
「話はしたんですが、言えたかどうかは、75点、くらいですかね」
八束は少し唸って考える。
宣言するつもりで来た。
挨拶と言うか、この男との関係を、彼の唯一の肉親とも呼べる人間に、認めてほしかった。
だがいざとなってみれば、恋人だの付き合っているだの、そういった言葉はなかなか直接口に出せない。
──情けなかった。
結局、向こうの方が大人だった。足りないものだらけだと自覚させられただけだった。
得たものも、確かにあるが。
「何話してたとか、聞かないんですか?」
「まぁ、気にはなるけど。男同士の秘密のお話でしょう? ほじくってまで聞こうとは思わないかな」
「……秘密ってほどでもないですけどね。多分、聞けばくだらないって思われる」
「そんな事言わないよ」
苦笑いされて、八束も緊張の糸が解けてきた。小さく笑みをもらす。
「あの、うち歩きだと、結構距離あるんですけど」
どこまで送ってくれるんですか?と問えば、「家の手前くらいまで行くよ」とさらりと答えられる。
「寒いし、帰るの遅くなっちゃいますよ?」
「いいのいいの。誰も待たせてないし、グラハムも寝てるから。歩いてるうちに、酔いも覚めるだろうし。君とも最近会ってなかったから」
「……明日からまた、仕事手伝いに行きます」
「うん。楽しみにしてる」
少々気恥ずかしくなってきて、口調が固くなってしまった。
なんだろう。こそばゆい、と思う。
「あの、変な事聞いていいですか?」
問えば、長畑が「ん?」とこちらを見る。
「俺らってその、恋人って……言ってもいいんですよね?」
「君はなんだと思ってたの?」
「え。えっと……」
──恋人だとは思うんだけど、いまいち自信なくて恐れ多いと思ってて、そうだとは言い難かったです。
そう小声で伝えると、長畑は少々呆れた様な、変な顔をした。
「あのね。僕もそんなに器用な人間じゃないんだよ。好きじゃなきゃあんな事できないよ。今更過ぎない?」
「──はい」
返す言葉も、ありません。
そんな思いで頷けば、別に怒ってるわけじゃないけど、と長畑は呟く。
「まぁ確かに、世間一般の『恋人らしい』事なんてしていないね。僕も、君をどこかに遊びに連れて行ってあげていたわけでもないし。若い君には、少し退屈だったのかな」
「そういうわけじゃないです。どっか行きたいとかはないです。今みたいに、いるだけでも俺は嬉しいですし──」
邪魔したくているわけではないのだ。そんな思いで、長畑の腕を掴んだ。
「……ほんと変わってるね、君は」
「いい意味ですか? 悪い意味で?」
「うーん……僕にとっては、いい意味で」
長畑がにやり、と笑う。
愛想のよい笑いだけでなく、こういった悪戯っ子のような表情も見せてくれるようになったというのが、八束にとってはとても嬉しかった。
できればのんびり、このまま誰もいない夜道を楽しみたい。
八束はそんな思いだったのだが、ひゅう、という風の音と共に周囲に粉雪が舞い、視界が一面白くなった。
「……まぁ、のんびり話したいのは山々だけど、寒いしね。なんかこう、がっつり雪が降ってきたから、早く行こうか」
バラ園を出てからしばらく。雪の勢いが、少しずつ増してきている。
肩や髪の上に、少し雪が積もりはじめていた。
周囲は完全に吹雪状態になっている。
「……長畑さんこれ、帰り大丈夫ですか?」
八束は帰れば終わりだが、この男は帰路もある、聞けば、長畑は「そうだねぇ」とのんびり言いながらダウンジャケットのフードをかぶった。
「大丈夫でしょ多分。明日いなかったら、多分どっか埋まってると思うから。探しに来て」
「それは勘弁してください。って言うか、長畑さん埋まるほど降ったら大事ですよ……」
「まあね。でも僕埋まるほどでなくても、結構降ったらビニールハウス潰れる。庭のバラ折れるかもしれないし。雪害、真面目に勘弁してほしいんだけど。天気予報当たらないなぁほんとに。帰ったら支柱立てとこうかなぁ……」
「いや、それより自分の心配をですね」
吹雪さえなければ、ちょっとしたデート気分だったのだが。
雪この野郎と思いつつ、今は隣で大雪が降った場合の仕事の段取りを考え始めた恋人を見ながら、八束は深いため息を吐いた。
グラハムが「ため息つくと幸せ逃げるよ」と言っていたのを思い出すが、今はがっくり肩を落とさせてほしいと思う。
何か、良い事も大変な事もあった一日だった。
「あの」
八束は遠慮がちに言いながら、長畑の手を取った。
「暗いし誰もいないし、手、繋いでもいいですか」
「いいですかって言う前に、握っているじゃない、君」
長畑は苦笑いしていたが、そっと手を握り返してくれた。彼の指先がとても冷たかったので、八束は温める様に、その指先をしっかりと握った。

この男の」「恋人」として、恥ずかしくない人間になりたい。
とにかく日々頑張ろう、と八束は吹雪の中で、前向きな固い決意をした。