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薔薇園とワンダーランド

01 先生と、不思議の国のアリス


グラハムが明日帰ると聞かされたのは、その日の夕方だった。
その日、八束のバイトは休みだったが、前日携帯を置き忘れていたので、学校の帰りに長畑のもとへ寄ったのだ。

「今回、ずいぶん長くいましたね」
二週間くらいですっけ? と、リビングでスーツケースの荷物を整理するグラハムに、八束は声をかける。
「そうだね。ちょうど二週間。今回はゆっくりお休みとるつもりで来てたから、夏よりものんびりできてよかったよ」
途中で永智にブチ切れられて追い出されたらどうしようかと思った、とグラハムは笑いながら言うが、長畑は今回、かなり我慢していたような気がする。
いるのが嫌というより、うるさく言うのを我慢していたと言うべきか。
身内には手厳しいところがある彼だが、長畑にもあの夏から「心境の変化」というものがあったらしいので、いつまでも噛みつくのもどうかと思ったのだろう。
ギスギスしたものはなくなっていた。
でもその方が互いの為だと思うし、八束としても安心できる。
「あれ、君、来てたの?」
そんな事を考えていたら、リビングの引き戸が開いて、長畑が顔を覗かせる。
八束が来たとき、彼はいなかった。どうやらどこかに出かけていて、今戻ったらしい。
手にはクリーニング屋の袋を持っている。
「はい、君のスーツ。クリーニング出しといた」
「あらー、さすが」
グラハムはうれしそうに袋を受け取ると、ビニールのかかった自分のスーツを取り出した。
「ありがと。これ家宝決定だわ」
「馬鹿な事言ってないで、ちゃんと荷物整理しといてよ。大体何か忘れていくんだから」
「また取りに来るんだからいいじゃない」
「その取りに来るのに片道いくらかかってると思ってるの……」
「それはそれ。君に会えるってのは、私にとってプライスレスだから」
「……」
ね? と真顔で言うグラハムに、長畑が少しげんなりした顔をしている。
「まぁ、気を付けて帰ってくださいね。俺明日は会えないんで。……お世話になりました」
少し不穏になりかけた空気を察して、八束は話題を変えて頭を下げる。
グラハムは明日の朝にはこちらを出るらしい。 明日は平日なので、自分が会えるのは今日が最後という事になる。
「いえまぁ、こちらこそ。今回はあまり君と遊べなかったなぁ。あ、忘れるところだった」
グラハムはスーツケースの中を思い出したようにあさると、小さな紙袋を取り出した。
「八束君にお土産買ってたの忘れてた。国へ持って帰るところだったよ」
はい、と笑顔で差し出されたので、八束は礼を言いながらも受け取る。
「なんですか? これ」
「開けりゃわかるよ」
──自分にお土産?
疑問に思いながらも、薄い紙袋を開けると、中にあったのはしゃれた装丁の本だった。
洋書である。
「……不思議の国のアリス?」
長畑が、八束の手元を覗き込んで言う。
言われてみれば、確かにそれっぽい英語のタイトルがついている。
「君英語苦手だって聞いたからさー。児童書買ってみました。それ読んで訳して、私に提出するように。そんなに難しくはないはず」
「えぇ……」
なんでそんな事を。八束は唸りながら、ページをめくってみた。
──アリス。
名前は聞いたことがあるが、話の内容はざっとしか知らない。
「っていうか、何でグラハムさんがそんな事知ってるんですか」
「ごめん。僕がばらした」
「……」
あなたですか、という視線で長畑を見れば、長畑は少し申し訳なさそうに笑う。
「まぁ、でもいい機会なんじゃないかな。ちょうどここにいい先生いるんだから、直に教えてもらうってのもいいかもよ」
彼、僕の語学の先生だから、と長畑は笑う。
「先生?」
「そう。僕、イギリス行ったころは全く喋れなかったの。僕に英語教えたのは彼」
長畑がそう言えば、グラハムは少し自慢げに笑った。
「まぁ、私の日本語の練習相手は永智だったけどね」
「……だから時々すごく子供っぽいしゃべりしてるよね」
「仕方ないじゃなーい。刷り込み教育だからさー」
大人二人は笑う、が。
そこに、彼らしか知らないものがあって、八束はなんとなく悔しくなる。
彼らは身内のようなもので、共有している時間は八束とは比べ物にならないくらいに長い。
それは、わかっているのだが。
嫉妬なのか対抗意識なのかよくわからないものが湧いてきた。
提出しろとは言ったって、どうせグラハムが次に来るのは夏くらいだろう。
多分そのころ、彼は忘れている。間違いなく。
学校帰りだったので、カバンの中にはちょうど英語の辞書も入ったままだ。
「……その「先生」は今日でも付き合ってもらえるんですか?」
八束が地底の底から出したような声で言えば、グラハムの顔がぱあ、と輝いた。
荷物整理に飽きてきていたらしい。
「お、やる気だしたかね八束君、それでこそ男!」
「やってみますよ! 全然自信ないですけどね!」
八束の煮え切らないが勢いだけはある返事が、室内に響いた。

少し薄曇りの夕方。
ダイニングテーブルに座り、児童書とノートと辞書を広げ、八束はうなりながらもひたすら文章を訳す。
「私漢字読めないからひらがなで訳書いてね。……そういえば君、この話知ってるの?」
そう言って本を指差しながら目の前に座るのは、強面の英国人。
訳しているところをじっと見られるのは、なかなかのプレッシャーだった。
「あれでしょう? 女の子が、うさぎ追っかける話」
「まぁ間違っちゃいないけどね」
八束の答えに、グラハムがなんとも言えない顔をする。
その程度しか知らんのか、とも思われているようだった。
「あと、作者がロリコン疑惑って事くらいは知ってます」
「なんでそっちは知ってて話の内容知らないのさー。まぁそういう雑学的なのは面白いけどね」
「グラハムさんの好みは?」
「はい?」
八束の問いに、グラハムが目を丸くした。
「……少年好き?」
そう言うと、八束の額にでこぴんが飛ぶ。
「あたっ」
「私はー、可愛いものが好きなだけだよ。ちっさくて可愛いものは基本好き」
「長畑さん小さくないですよ」
「昔はちっちゃかったし可愛かったの。今も可愛いけど。君こそ、男好きって感じはしないけど?」
「……なんででしょうね」
「……なんでだろうね」
お互いの小さいため息をともに、一瞬の静寂が訪れる。
歳も離れた自分たちがなぜか親しくなってしまったのは、根底に存在する仲間意識のせいだろう。
──お互い、一人の男が好き。
後悔も全くないというところまで同じだ。
「まぁ、そんな事はいいからちゃっちゃと訳してよ。お腹すいてきたよ私」
「無理言わないで下さいよ、全然終わる気配ないですからこれ……」
「完璧じゃなくていいから君の思うとおりにやってみせてよ。間違ったところは覚えればいいだけなんだから」
まぁ確かに、その通りなのだが。
ネイティブ相手だと緊張するんだよと思いながら唸っていると、台所の戸が開いた。
長畑だった。
お盆に乗った何かを持っている。この人、外にいたはずなのだが。
「……なんですかそれ?」
八束が振り向いて言えば、長畑はそれをテーブルの上に置いた。
「おはぎ。今、外で仕事してたら、こないだ庭仕事しに行ったところの奥さんに貰ったよ」
よく見れば、お盆の上には拳大のおはぎが盛られている。
「たくさん作ったからおすそ分けにって。君ら食べる?」
食べるーと声を上げたのはグラハムだった。
(さすがマダムキラー……)
自覚があるのかないのか。長畑は、年配の女性によくモテる。
綺麗な顔をして愛想が良く、優しいからだろう。
若い世代からはちらちら見られている事の方が多い。
ちなみに、もっと若い世代……八束の妹なんかは、「王子様ってほんとにいるんだなって思った」とか夢見がちな事を言っていた。
初対面のときはびっくりして逃げたくせに、あいつは母親に似て面食いだ、と八束は思う。
自分も、そうなのかもしれないが。

それから約一時間。
おはぎを食べつつ数ページ訳したそれを、グラハムに提出した。
まるまる一冊訳していたら、さすがに今日が終わってしまう。
「先生」も面倒になってきたようで、「疲れただろうし、今日はそのへんでいーよ」と適当なところで終わりとなった。
「ほう。そんなに悪くないよ。さすが現役高校生」
赤ペンを持って八束の書いたひらがなの英訳を、グラハムは添削している。
「ありがとうございます……」
八束は頭がくらくらした。
何で、テスト前でもないのにこんなところで頭を使わねばならないのだ。
……自分がやる、と言ったせいではあるのだが。
「やればできるじゃない君。なんで苦手意識持ってるの?」
「……まぁ、今回は辞書持ちでしたから」
何で苦手なの? と言われても、正直よくわからない。
おそらく習い始めたとき、興味がなかったのだと思う。
海外に興味を持った事がなかったし、特別行きたいとも思っていなかった。
八束にとって、「外国」というのは未知なのだ。
「わからないから怖いって思ってるのかも……」
八束はそう呟いて、テーブルに突っ伏した。
なんとなく、全ての力を使い果たした感じがする。
「怖いかなぁ。まぁ、聞くのと話すのと書くのとじゃ、また違うもんね。慣れなんだろうけど」
よくできました、とグラハムは添削したノートを返してきた。
訳にそれほど突っ込みはないが、書き写した英文のスペルミスがいくつか指摘されている。
赤字の花丸に、少し気が抜けた。
「なんかグラハムさんって……建築士より教師とかのほうが向いてそうですね」
「まぁ教師とまではいかないけど、大学で講義してみないかって誘われたことはある。断ったけど」
「へぇ。やればよかったのに」
「やだよ。私は教えるより造るもの考える方が好きなの」
言いながら、グラハムは席を立つ。
「さて。お勉強の時間も終わったので、私はご飯でも作りますかね。君も食べてく?」
「え。……あなたが作るんですか?」
意外だと思って、八束は思わず眉を寄せて言った。
この男が台所に立つ姿と言うのが、全く想像できない。
「ただ飯食べて宿まで借りてたんじゃ、さすがに蹴り出されますよ。それにあの子一人だと何食べてるかわかりゃしないからさ」
「あー……確かに」
「という事で、君はリビングでくつろいでればいいよ。たぶん永智もそろそろ帰ってくるでしょー」
何作るかは、できるまで秘密ね。
そう言われて、八束は台所から追い出された。
食べるも食べないも、自分は言ってないのだが。
軽くため息をついて、八束はリビングのソファに腰かけた。
今更言ってもいつもの事だ。
手に持ったものをカバンに入れようとして、八束は貰った本をまじまじと見る。
──不思議の国のアリス。
またずいぶんと乙女チックな本をお土産にくれたものだ、と八束は思う。
妹に見せたら喜びそうだなぁと思いながら、ぱらぱらと本をめくる。
洋書らしい少しリアルな、だが細かい挿絵が目を引いた。
児童向けという事で、挿絵が多い。
絵を見るのは楽しいが、英文も見ているうちに勉強疲れもあって眠気がやってきた。
やばい。これは寝る、と思いながら本を閉じた。眠気にあらがえない。
自分の手首の、安い腕時計を見た。
午後5時ちょい過ぎ。
長畑はもう少しで仕事を終える頃だろう。グラハムもここで自分が帰ると言ったら、うるさいかもしれない。
ちょっとだけ、寝させてもらおうか。
そんな事を思いながら、八束はソファに深くもたれた。
──慣れない事なんてしたせいだ。
でも悔しいから、もうちょっと真面目に勉強してやろう。
そう思った八束の意識は、そこで落ちた。


それから、どれだけの時間が経ったのだろうか。

自分が寝てしまっていた、という自覚はあった。
寝過ぎたかもしれない。今何時だ、と八束は眠たい意識を振り切って、目を開ける。
だが、目を開けた瞬間。
周りの光景に、八束の眠気は吹き飛んだ。
「……は?」
思わずそんな声をもらしながら、八束は周囲を見渡す。

自分が寝っころがっていたのは、外だった。

腕の下にちくちくしたものがある。芝生だ。周りにある背の高い植物は……バラ。
夕暮れ時だったはずなのに、頭上には澄み切った青空が広がっている。
日差しの感覚から、昼の二時か三時といったところだろうか。暖かい。
「ここ……」
どこだ? と思いながら、八束は周囲を見渡す。
長畑のところの庭によく似ている気がするが、彼の庭に芝はない。
バラの雰囲気も少し違う。花はぽつぽつ咲いていて、満開とは言えないが──おかしい。
まだ2月のはずだ。彼の家の庭であれば、バラは葉が落ちて丸裸だったはずなのに。
この庭のバラは、葉が青々と茂っている。
それに、庭の木々の向こうに見える建物。
洋風のそれは、八束がさきほどまでいた家ではなかった。全く別の建物だ。
それら全ての光景に、八束は首を傾げる。
──まだ自分は夢を見ているのだろうか?
風とともに、少し酸味のあるような、新鮮な植物の香りが微かに香る。
匂いまでするとは、リアルな夢だ。
どうしたらいいのかわからないが、とりあえず身を起こそうと立ち上がると、うしろで何か物音がした。
かさり、と植物をかきわけたような音。
つられるように振り向いた八束は、言葉を失う。

八束の背後には、少年がいた。

八束よりも背が低く、歳も幼い。雰囲気からして、小学校高学年くらいだろうか。
だがこの少年に、八束は見覚えがあった。
若干癖のある柔らかそうな茶金の髪に、鳶色の瞳。
賢そうな眉に色素の薄そうな肌。
黙っていると、まるで造り物のような造形。
「……長畑さん?」
思わず、言葉が漏れた。
いつも見ている彼の容姿に、恐ろしくそっくりなのだ。
八束の言葉に反応して、少年の眉がひくりと動いた。大きな目が、こちらを見る。
(なんつー夢見てんだ俺……)
八束は己の見ている夢の光景に、心の中で毒づいた。
まじでいい加減にしろ俺、と思う。
幼い彼の姿は、写真では見たことがある。玄関に飾られている、彼の家族写真でだ。
好きな人間の、子供のときの姿。
それを見たいという気持ちは、確かにあった。あの写真以外に持っているのであれば見てみたいとは思っていた。デリケートな問題なので、直接見せろと言ったことはなかったが。
だからって、こんな夢を見る自分はどうなのだ。
自分のそんな願望が見せたのだとしたら、自分もなんだか危ない奴のようではないか──誰と比べて、とは言わないが。
目の前の長畑によく似た少年は、そんな内心あたふたしている八束を見つめている。
少し不審なものを見る様な……だがそこに興味もあるような目だった。
少年の唇が動く。
「……あなたは、日本人?」
囀るような声だった。
声が高い。
声変わり前なのかもしれない。長畑のそんな声を、八束は聞いたことがあるわけでもないが。
「え……あぁ、日本人ですけど……」
自分より小さな、幼い少年に敬語で話すのも変な気がしたが、これが「長畑だ」と思うとため口も叩けなかった。
少年はこちらをじっと見ている。幼いのに、大人のような目をする。
どことなく居心地が悪くて、どうしようかと思っていたときだった。
「永智、どこにいるの?」
どこからか、少年の名を呼ぶ男の声がする。
う、と八束は声に詰まった。
この、少年の名。
そしてこの少年を呼ぶ声、八束はものすごく聞き覚えがあるのだ。
「グラハム、庭に誰かいるよ」
永智と呼ばれた少年は、その声に答えた。
その途端、何かが勢いよく駆けてくる音がする。
その駆けつけてきたものと……八束は目が合った。
スーツ姿の、背の高い男だった。
色シャツを着ていないぶん、まだビジネスマンに見えるが。
(若っ……!)
この男は先ほど八束に英語を教えてくれていた男だ。すごく若い。恐らく、まだ歳は30にはなっていないだろう。
長畑とは違い、八束はこの男の若い時の姿なんて見たことがない。
なのにごく自然に、この夢は男を若返らせていた。──おかしい。
その男の端正な顔は、八束の姿を見た瞬間、警戒の色に染まる。
「──永智。こっちに来なさい」
グラハムの声音は、有無を言わさないものだった。
少年も素直に、その男のもとへと行く。
少年が、男を見上げて言った。
「この人、日本人だって」
「そう」
言いながら少年をかばうように立つと、男は明らかに敵意の宿った緑の瞳で、こちらを見た。
「で。……どちら様?」
「え」
この男に、ここまで敵意と警戒を込められた視線で見られたことなどない八束は、戸惑う。
冗談などではない。
余裕のある、遊び混じりの脅しでもない。
この男は今、自分を本気で威嚇している。
「人んちの庭で何やってる。……どこから入った?」
「……」
男がもし銃でも持っていれば、すぐにでもぶっ放してきそうな声で八束に問う。
なんとなく、この夢の状況がわかってきた。
ここは彼らの敷地なのだ。
そこに、どこから入ったのか不審な男がいる。
──それが自分、というどうしようもないのが、この図だ。
(なんなんだよこの夢は……!)
夢にしては、リアルすぎやしないだろうか。
八束は反応に困りながらも、男の身体に庇われた少年に目をやる。
その少年は、怖がりもせず警戒もせず、ただこちらをじっと見ていた。
目の前に立つ男は、相変わらず厳しい視線をこちらに向けている。
この男は、八束を恐れているわけではないのだろう。
あちらの体格では、小柄なこちらなどひとひねりで終わる。
ただ後ろの雛鳥を守ろうとしているのだ、この男は。
八束は迷った。完全に悪者の、この状況。
これが夢だとしても、何と言えばいいのだ。