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バラ園と新たなる季節

13 女王様と小型犬


八束の呟きは、長畑にとっては理解不能なものだったのだろう。
「とにかく、話聞くから僕の部屋来てよ……」
そう言う長畑の顔には、少々の困惑があった。
そうだろう、と八束も思う。 いきなり「性癖の不一致で」なんて言われたところで、「はぁ?」と言いたくなる気持ちはわかる。そんな発言をした八束に対し、長畑が若干引き気味だったという事も、こちらを居たたまれない気持ちにさせた。何で自分たちが、こんな話題で微妙な空気にならなければいけないのか。
(趣向は人それぞれだと思うけど……)
八束も、目の前のこの男の事は好きだ。
だが霧島兄のように、「征服欲」というものには結びつかない。どうしたい、というのも特にない。霧島兄が長畑を真剣に好き、というのは本当なのかもしれないが、なぜそういう形に感情が振れるのか、考えてみたがやはりよくわからなかった。理解は無理だ。
「……今日、全然仕事してなくてすみません」
冷え切った庭の中、前を歩く長畑に、八束は遠慮気味に声をかけてみた。
今日誕生日を祝ってもらったのはとても嬉しかったのだが、それ以外では本当に働いていない日だ。それも含めて、本当に申し訳ない。
「いいよ。なんか聞いておいた方が良さそうだし、君、この間からなんかずっと考えてみるみたいだし。無理に聞こうとは思わなかったけど、そういうところはもう超えてる感じだよね?」
「僕が聞いても大丈夫なのかな?」と笑顔で、長畑はこちらを振り向く。
(この人は、何でそれがわかってて、こんなに落ち着いてるんだろう)
八束は、目の前の男が不思議でならなかった。
自分であれば、この男が何か不自然に隠していると気づいたら、気になって仕方なくなる。元々本音は隠す男なので、自分のように「だだ漏れ」のようなヘマはしないだろうが。
「……長畑さんは、俺が何か隠してたとしても平気なんですか?」
そう告げると、長畑は苦笑いを浮かべた。
「正直良い気はしない。でも言ってない事なんて、きっと僕の方が多い。君には聞かせたくないことだってあるし。そういうのも、君に向かい合う上では、全部言わなきゃ駄目?」
「……いえ」
八束は短く、首を振って答えた。
本音で言えば、聞きたい。
彼の過去には興味もあるし、全部知りたい。そう思う。
でも今回の、こちらの「言えない事」など、ただ吐き出して聞いてもらって、自分が安心したいだけの事なのだ。この男の言う「言いたくない事」ほどの深刻さはないのが悲しい。
結局、長畑に迷惑もかけてしまったなと、八束は肩を落とした。早いうちに、やはり言っておけばよかったのかもしれない。でも自分にもプライドがあったし、なかなかそれができなかった。


長畑の自室には、入ったことがない。
ここに来るようになって長いが、彼は大体外か台所などの共有部分にいる事が多いので、廊下の突き当たりにある彼の部屋を、覗く機会と言うのがあまりなかった。
たまにこの家に泊まる事があっても、「狭いから」と言われ、八束は別の部屋で寝ている。
自室に入れたくないというわけではないのだろう。現に、今は「僕の部屋で」と言われた。
「どうぞ」
ドアノブを握り、長畑が扉を少し開けてこちらを見た。
(……確かに狭い)
促されて部屋に入った瞬間、八束は彼の言葉が嘘でもなんでもなかったのだという事を理解した。
ベッドと机と、クローゼット。たった三つの家具だけで、部屋はいっぱいだった。机とベッドの間などは、人ひとり通れる通路くらいのスペースしかない。
机の上には何かの資料だとか本だとか、そういったものが散乱していた。いつもきちんと物を片付けているあの男にしては珍しい。
今日は部屋で調べものをしている、と言ってた。
その最中でグラハムに呼ばれ、片付ける事もせず出て来たのだろう。
なんだかとても、申し訳ない気持ちになってきた。
部屋の真ん中に突っ立っていると、後ろのドアが閉まる。
「……座ればいいのに」
後ろ手にドアを閉めた長畑は、部屋の真ん中に立つこちらを眺め、不思議そうに言う。
「ごめんね狭くて。ベッドの上、座っていいから」
「……」
頷いて、八束はベッドの端に腰かけた。
長畑も部屋に入ってくると、机の椅子に腰かけこちらを見る。
彼は何も言わないが、無言の圧力は感じた。
何があったのか説明しなさい、という意思だ。
学校でなにかやってしまって、別室に呼ばれて教師から説教をくらうかのような、居心地の悪さがあった。だが別に、この男は上から言葉をぶつけてくることはない。言うのを待ってくれている。だが正直に語らないと、きっとこの説教部屋からは出してもらえない。
「……バラの」
しばらくの沈黙を破って、八束は顔を上げる。
「霧島のお兄さんが持ってきたバラの花の写真、忘れないうちに渡しときます」
「あぁ」
その事は忘れていたらしく、長畑の眉がひくりと動いた。八束が封筒を渡すと、彼は中の写真を確認する。
「ありがとう。助かるよ。僕からもお礼は言っとく」
「見つかりそうなんですか? 例の花」
「まだ調べ始めたばっかりでね。検討はいくつかつけてるけど、多分もう少しかかる」
そう言いながら、長畑は写真を眺めている。
という事は、あの男との付き合いはしばらく続くのだろう。
考えれば新学期初日、教師の手伝いなんてせずにさっさと帰っていれば、同級生の霧島と仲良くなる事なんてなかった。
それ自体は別に、悪い出会いだったとは思わない。彼は良い奴だと思っているが、以降他人のいろいろな感情に振り回されて、こんなに疲弊するとは予想外だった。
人間関係というのは、本当にどう転ぶかわからない。
「……長畑さんは」
八束がそう静かに言うと、長畑の目がこちらを見た。
「霧島のお兄さんの事、どう見てます?」
「どうっていうのは、印象って事?」
八束が頷くと、長畑は写真を丁寧に封筒にしまい、机の上に置いて少し考えるように言った。
「僕もまだ何か言えるほど、腹を割って話したわけじゃないから。でもすごく賢い人なんだろうね。いろいろ知ってるし、僕より若いのに気遣いもすごい」
「気は遣いすぎだと思う」と八束が言うと、「まぁそう言わないであげようよ」と長畑は苦笑した。
「彼も必死なんだろうね。模範であろう、と振る舞っているのは感じる」
「……」
長畑の回答を、八束は目を丸くした。
その回答が、意外だったからだ。
八束の霧島兄に対する評価というのは「すごく気遣い屋で、賢そうで、家族思いで、でも性癖ちょっと変わってて押しが強い」という良いのか悪いのかよくわからないものだ。
好きか嫌いかで言えば、それもよくわからない。
こちらは悪口を言われたわけでもないのだ。
ただ自分が好きな男を彼も好き、というだけで「嫌い」と言うなら、人類皆敵になってしまう。
あと、気になったのは、長畑の事を「壁を持っている」と評価したこと。
互いに「そこまで話していない」と言うのにそう言うのだから、あの男はそれなりに人の本質を見る目があるのだろう。
政治家向き、と言えばそうなのかもしれない。
対して長畑は、霧島兄を「模範であろうとしている」と評価する。
八束とはまた違う目で、長畑は彼を見ていたと言うのが意外だった。
「模範って?」
「……口で説明するのは難しいかな。でも彼は政治家になりたいわけでしょう?  家も代々そうみたいだし、当然周りからの評価や期待もあるだろう。でもそれをわかった上で、それらしくきちんと振る舞ってる感じがする。彼の本質がどうであろうとね。目的の為なら、誠実の仮面をつける事くらい、ぞうさもないんだろう」
「これ以上言うと悪口になるね」と長畑は言葉を止めた。
「悪口じゃないと思いますけど……」
八束は、そう語る長畑を思わずじっと見てしまった。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
霧島兄は「家や周囲に流されたわけじゃなく、自分の意志で政治家を目指そうと思った」と言っていた。自己顕示欲が強いんです、とも。 将来の目的の為なら、周囲に望まれる人間を演じる。評価されたいが故に、少々の無理ならできてしまう。あの男ならば、それくらいやるかもしれない。
霧島弟も「秘書やりはじめてからあんな感じで」と確かに言っていた。
「なんで、そこまで」
わかるのだ、と驚きながら問うと、長畑は足の上で手を組み、にんまり笑った。
「僕もそれなりに人間は見てきている。小さいころから、癖のある大人といることが多かったからね」
「あぁ……」
今、台所で「遊んでるツケが回って来てる……」と言いながらメール返信している男も、なかなか癖のある男だ。
あれはあれで悪い男ではないのだが。
しかし幼いころに両親を亡くし、見守ってくれる人間がいたにしろ、海外で一人でしぶとく生き抜いてきたこの男の人生経験と言うのも、並みのものではない。
恐らく年齢の割には、いろんな種類の人間を見て来たのだろう。
酸いも甘いも見て来ただろうし、それを考えれば、自分は少しこの男を甘く見ていたのかもしれないと八束は思った。
鈍い鈍いと内心怒っていたことが、少々申し訳ない。
「で、なんで君は霧島さんと喧嘩してたの?」
「……だから喧嘩はしてないんですよ」
八束はため息をついた。あの男も感情的になる事はなかったし、あれは喧嘩ではない……はずである。
「あれはあの人が、あなたの事が好きだって言うから」
「へぇ」
絞り出すように小声で言うと、長畑が少し目を丸くした。
そこには気づいていなかったらしいが、「へぇ」で終わるのも、少々霧島兄が可哀そうに思えてくる。
「あなたを征服したいんだって言った。……だから性癖の不一致だって言ったんですよ」
「俺はそんな事思った事ないし」と付け加えると、長畑がこちらの動揺を余所に笑い始めたので、「……なんでそんなに余裕なんですか」と思わず聞いてしまった。
「いや、だって僕は、彼がお気に入りなのは君なんだと思ったから」
「それ、盛大な勘違いってやつですよ」
──霧島さん、ごめんなさい。
この人やっぱり超鈍いです……と八束は心の中で思う。
「ごめんね。僕はそういうの、はっきり言ってもらわないとわからないから。そっか、それで君ちょっと最近おかしかったんだね。君、聡いからなぁ」
ようやく納得がいったらしく、長畑は感心したように呟いた。
「でも僕を征服って、どうしたいんだろうね?」
(それを俺に聞くのか……!)
無邪気にこちらに聞いてくる長畑に、八束は頭を抱えた。
「言葉のとおり、だと思いますけど」
やたら高いプライドも、警戒心も剥ぎ取った姿が見たいのだと言っていた。
さすがにそんな事を自分の口から言うのは、はばかられる。
八束が言葉を濁すと、長畑は穏やかな笑みを浮かべた。
「……成程ね。でも、それは君の心配する事じゃないよ。来るならさっさと来ればいい。そう簡単には屈しない。それにそんな事を君にうだうだ言うくらいなら、僕に直接言えばいいんだよ。そこは良くない」
そう言い切った長畑の口端が、弧を描く。
椅子に座り、足を組んでこちらをそんな笑顔で見つめるこの男の瞳には、普段八束にはあまり見せない、好戦的な色があった。
──やれるものならやってみろ。
そんな色をしている。
長畑のそんな目を見たことがなかったので、八束は少々困惑した。
(これはその……女王様というやつ?)
その言葉が合っているのかは知らない。だが八束は目の前の木の椅子に座る作業服のこの男が、自分の知らない、得体のしれないものに見えた。
しかし成程、とも思う。
霧島兄は長畑の、普段は隠しているこの非常に高いプライドをへし折ってみたいと思っているわけだ。
八束はやろうとは思わない。この内面の気の強さがあってこその彼だと思っているし、わざわざハチの巣に棒を突っ込むような危険な事をしようとは思わない。
そこの違いが、霧島兄と己の違いなのだろう。
それを性癖の不一致、と言っていいのかどうかもわからないが。
(俺、考えてみればすごい人に手ぇ出したな)
今更ながら、思う。
この男を屈服させたいと思っていたわけでもない。理由もない。ただただ好きで、どうしたいとか考える事もできず、だが誰かに譲る気なんて微塵もなく、この男のそばにいる。
「……」
八束はベッドの端から立ち上がる。
部屋が狭い為、すぐ目の前にいる男に向かって、両手を伸ばした。長畑の頭を挟み込むように、両手で彼の側頭部に触れる。自分とは違う、柔らかな髪が指に触れた。
長畑は嫌とも離せとも言わず、椅子に腰かけたままじっとこちらの行動を見上げていた。
見かけによらず気位の高いこの男だが、自分のこんな突拍子のない行動も、突然触れる事も、許してくれている。
「……君は、そんな事言われて怒ったの?」
にっこり、されるがままにしながら、長畑が呟いた。
八束は首を横に振る。
「俺には、『そんな事』じゃないですよ。あなたにはそんな事、なのかもしれないけど」
ガキ臭く嫉妬しているだなんて思われるのも嫌で、なかなか言い出せなかった。自分の勘違いで不安になっているだけなのでは、とも思ったからだ。
しかしいざ言ってしまえば、彼はいつもと変わらず、よその男に想われていると知っても淡々としている。それが少し、悔しい。
「それに、怒ってはないです」
「そう? 声、荒げてたじゃない。何を言ったの?」
「そ、それはちょっと……」
「僕しかいないんだからいいじゃない。言ってよ」
片手で頭に触れる八束の手の甲を撫でながら、長畑はにっこり言った。
(絶対、この人聞いてた……!)
意地が悪い、と八束は歯をぎりぎり噛みしめた。この男は性格が良いのか悪いのかわからない。
綺麗な顔で棘をまき散らすかと思いきや、どうしようもなく優しいときもある。
完全に、手玉にとられている。顔が紅潮するのを感じながら、八束はそっと長畑の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「……あなたの、入る隙間なんて、ないって言った」
その瞬間、長畑の口角が上がるのがわかった。
「君は相変わらず、表現がすごくストレートだよね」
「だ、だってそんな事言われても……!」
他になんと言えば、と狼狽えていると、長畑の腕が八束の背中にまわった。
何か言う暇もなく、そのまま引っ張り寄せられて、長畑の膝の上に体が乗っかる。
「え……ちょっ……」
まさしく「お膝の上に向かい合わせでだっこ」だ。
赤くなればいいのか青くなればいいのかわからない。 だらだらと、背中や手のひらに汗が流れ出てくるのがわかった。
何も言えず無言で長畑の顔を恐る恐る見ると、彼はちょうど軽くため息をついたところだった。
「……狼狽えすぎ。そんなに怖がらなくても」
「こ、怖がってるんじゃなくて焦ってるんですよ!」
「すごい近いし!」と暴れたかったが、長畑の両手ががっしり八束の背に回っているので、どうにもならない。
「いい加減、君はスキンシップに慣れるべき」
「スキンシップ……って、これが……?」
「そう」
言いながら、動物を落ち着かせるように長畑の手が八束の背をよしよしと撫でる。
(……なんか俺の知ってるスキンシップと違う)
そうは思うが、背を撫でられているうちに、少々気持ちは落ち着いてきた。だが心臓だけは相変わらずばくばく言っている。
血圧が上がって来たのか、頭がどんどん熱くなってきた。
「……君は、ほんとうに可愛いね」
耳元で囁かれて、ぞわりとこみ上げてくる感覚に、八束は固く目を瞑る。もう限界だった。
がばり、と八束も手を伸ばし、長畑の首筋に顔をうずめるように抱きついた。
八束の背を撫で続けるこの男の体温は、暖かい。
まだ少し肌寒い空気の中、包み込むような暖かさを感じながら、八束は安堵の息を吐いた。
いろいろあったが、今日は良い誕生日だったと、今は思う。