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バラ園と新たなる季節

14 甘えと賄賂(終)


何もかもぶちまけて縋り付いてみたら、ぐるぐると頭を回る考え事も、イライラも溶けるように消えた。
「我ながら単純な造りをしている」と八束も思う。
だが長畑は本当に、こちらを甘えさせてくれる。
確かに他人に触ったり抱きついたり、というスキンシップはあまりした事がない。
そもそもそれが「苦手」とも思っていなかった。今だって緊張はしている。体の関節が固くなったような気持ちだ。
だがこの男の体温に包まれるのは、心地よかった。
他人にくっ付く事が、ここまで安らぐ事だとは知らなかった。
今まで八束は、この男に対して「どうしたい」という感情を持ったことはない。霧島兄は「征服してみたい」と言ったが、そういう特別な意思を持って、この男に近づいたわけではないと思う。
ただこの男は、八束にとって尊敬するべき大人で、多少なりとも彼のようになりたい、と思わせてくれる男で、誰にも渡したくないと思うほど、強い気持ちを抱く相手だった。
だがこうして顔をうずめるように抱きついていると、気恥ずかしさもまだあるが、ある種の満たされたような気持ちになった。
この気持ちはなんなのだろう。
(……俺、もしかして)

ふと考え、自分の気持ちに思い当たるものを感じて、八束は顔を上げた。目の前の、色素の薄い瞳と目が合う。
「……なに?」
長畑はただ穏やかに、こちらを見ている。
先ほどの気の強い「女王様」はなりを潜め、今はただ八束のしたいようにさせてくれている。
この男は本当にいろいろな顔を持っていて、場面に寄ってそれを変えられる。器用だとは思うが、どれが本当の彼なのか、正直わからなくなる。
「な」
八束は言いかけたが、途中で噛んだ。間近で見た長畑の表情はいつも通り落ち着いたもので、一人彼の膝の上で挙動不審になっている己が、急に恥ずかしくなってきた。
「なんでもないです」
そう、息を落ち着かせて答えれば、長畑は苦笑いを浮かべる。
「君も結構、内にため込むタイプだよね」
「長畑さんだってそうじゃないですか」
慌てる様子もあまり見せてくれない目の前の男を恨めしく見つめると、長畑は苦笑した。
「僕は、意気地なしなだけだよ。君は周りの為に我慢しちゃうからね。でも、僕にくらいわがまま言ってくれたって……」
そう言いかけた長畑が、ふと何かに気付いたように言葉を止めた。不自然な間に、八束も顔を上げる。
「どうしたんですか?」
「……いや。やっと、相手の気持ちがわかったって言うか」
「え?」
「……昔の話。もっと頼れって言われてたのに、僕は意地を張っていて、頼ったら負けだと思ってて、相談なんかするものかと思っていて──きっと、相手はこういう気持ちだったんだなって、今やっとわかった」
「……」
長畑は「誰」とは言わなかったが、苦笑と共に呟かれた言葉が誰に対してのものだったのか、八束にはわかった。
誰よりもこの男を、長く見守ってきた男に対してだ。
大事だから、相談してほしい、頼ってほしい。
心配かけたくないから、何も言わない。
どちらの気持ちも、痛いくらいにわかる。
「今からでもそう伝えたらあの人、泣いて喜ぶんじゃ」
「いきなり? えー……そんな事言えないよ……」
それに泣かれても困る、とこちらの言葉に本気で困った顔をした長畑を見て、八束は笑った。
──八束が、口を濁した理由。
それは自分が、「長畑に求めていたこと」になんとなく気付いたからだ。
具体的な何かを求めて、好きになった覚えはない。
だがもしかして自分は、無意識のうちに思い切り甘やかしてくれる相手、甘えられる相手としてこの男を選んだのかもしれない、と八束は思った。
どこかで、父や──兄なんて元からいないが、そういう存在として求めていたところがあるのかもしれない。
甘えたい、という衝動は前からあった。
でも迷惑だと思われたくなかったし、そういう事を思う自分も子供っぽくて恥ずかしいと思った。
彼と共にいたいなら、自分が大人にならなくては。
そう自分に言い聞かせて、気持ちを飲み込んでいた。
そう思うと自分が情けなくてじっとしていられず、八束は長畑の膝の上から降りようとしたのだが、長畑は八束を放してくれなかった。
背中に腕を回したまま、逆にぎゅっと八束を抱きしめる。
首筋に吐息を感じて、思わずびくりとしたが、彼はそれ以上の事をするつもりはないらしい。
すがりつくように、黙って八束の体温を味わっているような雰囲気を感じた。
──まるで、甘えているような。
珍しい事もあるものだと思いつつ、八束はしばらく考える。
「……あの、質問があるんですけど」
静かな部屋の中で、八束は問う。
「大人でも、好きな人に甘えたいって思うんでしょうか?」
長畑の顔は見えなかったが、そんな八束の言葉に、少し笑みをもらした気配だけは感じた。
「そんなの、大人も子供も関係ないんじゃないの?」
「……」
──そういうものなのか。
八束は、長畑の言葉を噛み砕きながら考える。
ならば自分の「甘えたかった」という根柢の感情も、特別恥ずかしいものではないのかもしれない。
(……でも、節度はいるよな)
自分の場合は甘え過ぎはやっぱりよくない、と八束は思う。
甘えはじめたら多分、ずるずる行く。

──でも、ときどきなら、甘えてもいいはず。

八束はそう結論づけて、長畑の腕の中でじっとしている事にした。
こんなに近くに居れる事も、あまりない。


「……八束ごめん。昨日、うちの馬鹿兄貴が何かやらかしたとか聞いたんだけど」
次の日の朝。
教室に入るなり、霧島が少々青い顔をしつつ話しかけてきた。もともと色白なのだが、今日は特に顔色が悪い。
思わず「……お前どこか具合悪いの?」と聞いてしまったが、「それは全然」と霧島は首を横に振る。
「昨日兄貴が夜帰ってきて、『八束君を怒らせたかもしれないから謝っておいてくれ』とか言いいはじめて。何やったんだって聞いても濁すし。それが気になって、あまり寝られなくて……」
顔色の悪い原因は、それらしい。
カバンを机の上に置いた八束は、顔面蒼白で謝ってくる霧島を見て、逆に居たたまれない気持ちになった。
別に彼が悪いわけではないのだから、ここまで謝られなくてもいいのだ。
しかし霧島は何度も「ごめん」と謝る。
「兄貴も悪気はないんだけど、結構ずけずけ言うし、押しも強いし……気分悪くさせたなら、本当にごめん」
霧島の深刻そうな謝罪に、慌てて八束は顔の前で手を振った。
「いや、いいって。喧嘩ってほどの事してないんだ。俺も結構ずけずけ言っちゃってるし……俺からもごめんなさいって、言っといてよ」
どうせまたすぐ会うんだろうけど、と思いながら、八束は何度も頭を下げてくる霧島に苦笑いで言った。
「お前が謝る事じゃないんだし。な?」
気にしないでいいよ、と八束が重ねて言うと、霧島はようやくほっとした顔を見せた。案外、彼も神経質に気にする性質なのかもしれない。
「おはよ。お前らどうした?」
そのとき、教室に入ってきた佐々木がこちらに声をかけてきた。今日は珍しく眼鏡などかけている。
「お前、目悪かったっけ?」
八束が疑問に思って問うと、佐々木はにんまりと笑って眼鏡を指でつい、と押し上げた。
「いや、これは度が入ってない」
「はぁ」
「俺は今日から、勉強のできる男に生まれ変わる事にしたから」
「……意味がわからんよ?」
「いや、あれだよ。親父と昨日進路の話をしましてね。俺がどうしても専門行きたいんだって言ったら、『馬鹿は野放しにできんから、校内模試で卒業までずっと20位以内に入れたら許してやる』と言われたので。やってやんよ、という事で」
そう言うと、佐々木は机の上に真新しい参考書を取り出した。
形から入るところが彼らしい、とも思う。
「……佐々木って成績どうなの?」
霧島が声を潜めて、八束に聞いてきた。
「えっと……確か300番台あたりをうろうろ……」
「……」
八束の答えに、霧島も無言になった。
下から数えた方が早い位置ではある。
多分、彼の親父さんもきっと、無理だろうと難題をふっかけたのだろう。だが彼は見かけによらず負けず嫌いな性格をしている。その条件が彼に火をつけたのかもしれない。
「あ、そういえば八束、お前にこれやる」
カバンの中をあさっていた佐々木が、そう言って何かを八束に投げてよこした。
放り投げられたのは、チョコレート菓子のファミリーパックだった。
「何これ、いきなり」
「お前、昨日誕生日だっただろ? 俺この前、約束ドタキャンしたしさ。妹ちゃんと食ってくれ」
「あー……ありがと」
佐々木がものをくれるなんて、珍しい。きっと数日前の事を、彼なりに気にしていたのだろう。こちらはそれどころではなく、すっかり忘れていたのだが。
ちなみに、昨日長畑がくれたケーキは、家に帰って食べた。
ホールケーキなど久しく見ていなかった妹もテンションが上がったらしく、「ケーキ入刀!」と楽しそうだったので良かったと思う。
そして自分の誕生日ケーキだったはずなのに、母親と妹に半分以上食べられたのだが、それも良しとしようと思った。
昨日は機嫌が良かったので、全て許せた。
カバンに菓子を突っ込んでいると、背後から妙に視線を感じる。振り返れば、霧島がやけにじっと、こちらを見ていた。
「何?」
「誕生日って。言ってくれたら俺だって、なんかしたのに……」
呟かれた言葉は、やけにひんやりとするものだった。
「え、あ……いや、いいんだよそんなの。気ぃ遣わなくても」
慌てて言うが、霧島は少々むすりとした顔をしている。
(なんだ、このデジャブ)
いつだったか、長畑とこんなやりとりをした気がした。
しかし今、何が霧島の機嫌を損ねたのか、八束にはよくわからない。
誕生日を教えなかっただけで?
だが「昨日誕生日だった」なんて事はこちらも忘れていたし、仲良くなったばかりの友人に、そんなアピールをするのもどうなのだ、と思う。
しばらく考えたが答えが出ない。話題を変えるように「あのさ、また遊びに行ってもいいか?」と聞くと、機嫌が直ったのか、霧島は控え目に笑みを浮かべた。
「……どうせなら、八束の家に行ってみたい」
「いいよ。別に普通の家だから、面白くはないと思うけど。今日はちょっと駄目だけど、バイト休みのときならいつでもいいし」
「今日はバイト?」
「いや。休みなんだけど、今日はおじさんと遊ばなくてはいけないんだよ……」
笑ってそう言った八束は、席に座るとため息をついた。

昨日、あれから長畑の部屋を出て台所に行くと、不機嫌そうなグラハムから「家の中でいちゃつかれて、長時間ぼっちにされた人間の気分について」を延々と聞かされた。
霧島兄と八束が話していたとき、気を効かせて長畑を呼んでくれたのはこの男だ。
その事には感謝はしなければならないし、確かに自分の立場に置き換えても、「その空間で長時間ぼっち」は楽しくないだろう。なので素直に謝った。
そのグラハムも明後日には帰るらしく、「だから、明日は私に付き合いなさい。全然遊んでないから遊ぼう。決定。明日は学校終わったら迎えに行くから、空けとくように」と勝手に宣言された。
相変わらず、八束の意志など関係なく、グラハムの中では既に予定として完成している。
もう慣れてしまったので、今更どうこうも言わなかった。
何か言うと、余計に面倒くさい事になる。
一応長畑にも、「長畑さんは行かないんですか?」と聞いたのだが、長畑は「僕は仕事があるから、明日はこのおじさんに何でも遠慮せず買ってもらうといいよ」と笑っていた。
「君におじさんって言われるとなんか腹立つ。そりゃおじさんですけど」とグラハムが複雑そうに何か言っていたが、それはまた別の話である。
そんなわけで、本日の放課後はグラハムとお出かけ、の予定になっている。何か買ってもらえと言われても、欲しいものなど特にない。
「ふぅん……おじさんと仲良いんだね」
霧島は感心したように言った。恐らく彼は「おじさん」とは親類の事だと思っているのだろう。訂正するのも大変なので、「まぁそれに近い人で……」と適当に八束も頷いておいた。
好きな人の縁者、という点ではある意味間違っていないかもしれない。


放課後になり、佐々木と霧島と3人で玄関を出ると、校門前に見覚えのある車が停まっていた。
霧島の家の、迎えの車だ。
相変わらずお迎えは続いているらしい。あの家も心配性なのだなと眺めていると、同じく下校中の生徒たちの視線が、ちらちらと車の方へ向いているのがわかる。つられるように視線をそちらへ向けると、スーツ姿の男が二人、話し込んでいるのが見えた。
「……うわ」
それが誰なのかわかった瞬間、八束の口から、少々失礼なつぶやきが漏れる。
その二人の男は、どちらも見覚えのある人間だった。
だがあまりセットでいてほしくない人たちだった。
八束がそちらに気付いたのと同時に、その二人もこちらに気付いたらしい。
「あー、八束君待ってたよー」
「昨日はどうも」
どちらも、にこやかな笑顔でこちらに声をかけてくる。
車の傍で立ち話をしていた男二人は、グラハムと霧島兄だ。
この二人に接点などなかったはずだ。何故この二人がセットなのか、八束には意味がわからない。
グラハムは周囲の「あの外国人誰?」という視線をものともせず、ぶんぶんこちらに手を振っている。行き交う生徒のいぶかしげな視線が、八束の方へ一斉に向いた。
「……なんで兄貴がいるんだよ。仕事しろよ秘書」
霧島も、兄が迎えに来ているとは予想外だったらしい。そう小言を言いながら近づくと、霧島兄は「仕事はしているよ?」と苦笑いを浮かべた。
「買い出し頼まれたんだよ。あと、八束君にも謝りたかったし。ごめんなさいね。昨日はいろいろ、変な話をしてしまって」
霧島兄は、八束の方を見て申し訳なさそうに謝った。
またすぐ会うだろうとは思っていたが、こんなに毎日会うとは予想外だった。
「いえ、こっちも気にしてないですし、俺も悪かったですし……って言うかなんでグラハムさんいるんですか……」
「私? 迎えに行くって言ったじゃなーい。そしたら昨日見た顔がいらっしゃったので、ちょいとお話を」
にっこり、グラハムが霧島兄に笑いかける。ええまぁ、と霧島兄も眉尻を下げて笑った。 霧島兄の笑顔はいつものものだが、その表情からは「よくわからないのに話しかけられてすごくびっくりした」というのが伝わってくる。
どうやらグラハムは、昨日遠目に見かけた霧島兄の顔を覚えていたらしい。しかし霧島兄はそれに気づいていないのだから、戸惑うのも無理はないだろう。
「あ、そこいるのは八束君のお友達? せっかくだから一緒にお茶して行かない?」
しかし当のグラハムは、呆然とする佐々木と霧島にもにこにこと話しかけている。
(……この人は人見知りとは無縁だな)
八束も、あまり人見知りはしない。
だが、彼の恐れを知らないコミュニケーション能力には敵わないと思った。見習うべきなのかどうかはわからないが。
佐々木は会った事が一応あるので、興味からかいろいろ話しかけていたが、霧島は警戒しているのか、佐々木の少し後ろで無言を貫いていた。
そんなグラハムと友人二人の会話を、霧島兄も無言で、だがにこやかに見つめている。
「……あの、すみません。せっかく迎えに来てもらってるのに」
「あの人言い出したら聞かないし」と言うと、霧島兄は」いいんですよ」と首を横に振った。
「家に連れて帰ったって、一人で部屋に籠ってるだけですからね。体調良いなら、友達と遊んだ方が良いに決まってます。迎えが必要なら、また手配しますし」
八束は、そう語る霧島兄の横顔を見上げた。
長畑はこの男を「模範であろうとしている」と評したが、家族思いな一面というのは、別に彼が無理して演じているものではないと思うのだ。
八束は長男で、自分より上に兄弟というのはいない。こういった頼れる兄弟がいるというのは、少し霧島がうらやましいとも思う。
そういった視線で霧島兄を見つめていると、視線に気付いたのか彼もこちらを見た。
「八束君。さきほど、あの方にも言われたんですけど。僕は別に、事を荒立てようとは思ってるわけではないんですよ。君から大事なものを奪おうって言ってるわけでもないです」
「ちょっ……あの人なんか言ったんですか?」
慌てて、だが声を潜めて問えば、霧島兄は苦笑した。
「えぇ。世間話してたら、『うちの子達に、妙な真似だけはしないでね』ってすっごい笑顔で言われました。……逆に怖かったです。僕の人生ここで終わるかとちょっと思いました」
「……」
しばらくの無言の後、八束は「ごめんなさい」と頭を下げた。
確かに、見た目だけは確かにマフィアみたいな男だ。いきなりこんな強面でがたいの良い外国人にそんな威圧をされたら、誰でも怯える。
だが八束の謝罪に、霧島兄も慌てて「君が謝る事はないんですよ」と笑顔を浮かべた。
「僕も、あれからいろいろ考えたんですけどね。確かに、君の言った通り、僕の入れる隙間なんてないんでしょうし、あの人も仕事上のお付き合い以外で、僕に興味なんてないんでしょうし……。昨日あの人、ちょっと僕に対して怒ってたでしょう?」
「いや、あれは誤解で怒っ……」
「あれ、かなりゾクゾク来ました。僕、ヤバいかもしれません。なんかどんどん新しい扉開いてる気がします。昨日、そんな自分が信じられなくて、寝れませんでした」
「……」
──そうですね。ノーマルでない扉を開いていますね。
思わずそう言いかけて、やめた。
この兄弟は、本当にそれぞれ、違ったかたちで自分たちに迫ってくる。当人たちも、その感情に戸惑っている様子でもある。
(……なんでこうなったんだろうなぁ)
良い人たちなので、普通に「お友達」であれば何も問題はなかったのだ。複雑だ。
「長畑さんが、言ってたんですけど」
八束は少し考えて、霧島兄を見上げた。
「霧島さんは、なんだか模範であろうとしているような気がするって言ってました。目的の為に、いろんな仮面を被り分けられるって」
そう言うと、霧島兄は意外そうな顔をした。
「……なるほど。そういう評価されてるとは面白いな。それで?」
「長畑さんもいろんな顔を持ってる人です。優しいのから怖いのまで。俺も多分、まだ全部は知らない。でもそういう顔を使い分けられる人なんですよ。長畑さんは認めないかもしれませんが、俺は、そういうところは霧島さんと似てるって思ってます。互いに遠慮しない、そういう友達にはなれるかもしれません」
「……友達かぁ。でも互いに似すぎていると、人間だめなんですよねぇ。僕は親しくはなりたいと思ってますけど」
頭をかきつつ、霧島兄は苦笑する。
この男も、あの男に毒された側なのだろう。きっと「こんな扉を開く」とは、彼の計画的な人生の中では予想外だったに違いない。
「八束君は、僕があの人を好きでも良いんですか?」
「思うのは自由ですからね。譲る気はないですけど」
「懐広いですね、君は」
「そればっかりは理性でどうにもならないの、俺もわかってますからね……」
八束がそう言えば、霧島兄は少し同類を見る様な瞳で、こちらを見て微笑んだ。
少々「ノーマルではない」としても、彼の気持ちも立派な恋なのだ。危なっかしい感情だが長畑自身も「来るなら来い」と言っているし、霧島兄もあまり乱暴な手段に出る男でもない。そこの問題は、当人たちの間で何とかして頂きたいと思う。

「ねぇーそこのお二人、聞いてる?」
こちらはこちらで話し込んでいたせいか、グラハムが待ちくたびれたように声をかけてきた。
「八束君、お出かけする前にこの子らとお茶して行こうよ。お茶代奢るからさー」
向こうは向こうでそんな話を取り付けたらしい。佐々木達の方を見ると、佐々木は「いや、なんか面白そうなんで」と苦笑いしていた。
「霧島も行く?」
八束が問えば、佐々木の後ろにいた霧島は、遠慮気味に頷いた。
「みんな、行くなら」
「じゃあ、僕は今日は帰りますね。礼、迎えいるなら連絡して」
霧島兄の言葉に、霧島は頷いた。
「じゃあ行きますか。霧島さんも今度お会いできたら、ご一緒しましょうね」
グラハムもにっこりと、やけに紳士的に告げた。
「えぇ、是非」
霧島兄も笑って、グラハムの言葉に答えると、車に乗って去っていった。
「ちょっと。あまりあの人いじめないで下さいよ」
「いじめてませんし喧嘩も売ってませんー。優しく『お願い』しただけですー」
にんまりと、グラハムは笑みを浮かべて言う。恐らく、この男は情は深いが根本的なところは「いじめっこ」なのだ。この状況もなんだか楽しんでいるようである。
「さて行きますか。君らも勉強ばっかりして疲れただろうし、糖分取らなきゃねぇ。息抜き大事よー」
グラハムは八束の背中をばしばし叩く。本人は加減しているつもりなのだろうが、結構痛い。
「……八束って外国人の親戚いたんだね。知らなかった」
霧島が、心からそう信じ切っている声でつぶやいた。
「いや、それはごめん違うんだけど……」
「親戚って言うかお友達だよねぇ」
グラハムはにっかりと笑って言った。
「……はい」
八束も頷く。
確かに歳は離れているし性格も全く違うのだが、わりと何でも話せるお友達、というところは間違いない。


学校近くの喫茶店で軽く茶を飲み二人と別れると、グラハムは「お買いもの行こうか」と八束を市街地へ連れ出した。
「八束君、何欲しい? 誕生日だしお世話になってるから、何でもいいよ。買ったげる」
「……それが欲しいものって言われても、ないんですよねぇ」
急に言われてもなぁ、と八束が呟くと、グラハムは「君は物欲ない子だねぇ」と呆れた様な声を出した。
「お財布とかどうよ?」
そう言ってグラハムが指差すのは、目の前に建つ革製品のブランドショップだった。学生でも、頑張れば買えない事はないお値段のブランド。しかしあまりこだわりがないので、買おうと思ったこともなかった。
「中身そんなに入らないんですから、そんな高いのいらないですよ……」
窓ガラス越しに値段を見た八束は「うわぁ」と呟きをもらす。
普段の己が買うものより、0が一個か二個多い。
「そう? でも君の財布、もうぼろぼろじゃない」
「うーん……まぁぼろいんですけどね」
ぼろくても、八束は自分の財布を捨てられないのだ。
「一応、親父の形見なんで。俺はこれ使っときたいんですよ」
「あ、そうなんだ。ごめんね。悪い事言っちゃったね」
「いや、それはいいんですけど」
そう言いつつ店の前を通り過ぎようとして、ふと飾ってある革製品の一角に目がいった。
「なんか良いの見つけた?」
こちらが立ち止まったからだろう。グラハムが、ショーウィンドウの中を覗き込む。
「……あれ、が良いです」
八束が指差したのは、商品の隅に立てて飾られていたものだ。財布でもなければ鞄でもない。
「……皮の手帳? なんでそんな渋い物がいいの?」
グラハムが心底不思議そうに、八束の方を見る。
「いや、なんか大人って感じするなと思って……。俺、手帳とか普段全然使わないですけど、財布や鞄よりも安いし、持ってたらなんかカッコいいかなって思って……」
自分でも、しょうもない理由だとは思っている。
だが錆びた色合いのそれに、なんとなく惹かれるものがあったのだ。
「……まぁいいか、君が気に入ったなら。ちゃんと使いなさいよ?」
ぽんぽんと頭を大きな手のひらで頭を撫でられ、八束は頷いた。

会計、一万五千円。
きっと自分だったら、いくら気に入ったとしても買わなかった買い物だろう、と八束は手帳が入ったショップの紙袋を片手に持ちながら思った。
「あの、ありがとうございました」
店を出て八束が礼を言うと、グラハムは「いやー、まぁそれくらいはね」と苦笑いを浮かべた。
「永智がお世話になってますし。私もお世話になってますからね。たまにはお礼しないと、ばちが当たるよ」
にこにこと機嫌のよさげなグラハムだが、彼がこんなに自分に良くしてくれるのは、自分が長畑と親しい関係にあるからだと八束もわかっている。
「……明日には帰っちゃうんですよね?」
「うん。今回は急に来ること決まったからね。夏に来れたらいいなって思ってたけど、次はちょっと間があくなぁ」
忙しくて、とグラハムは呟いた。
この男も、こちらに来たときは好き放題しているが、暇ではないのだろう。
「仕事、大変なんですね」
「まぁ大変だけども、好きでやってるからね。人も雇ってるし、頑張らないとねー」
へらりと笑うこの男は、確かに癖があって強引だ。だが見るべきところはきちんと見ていて、ふざけているだけではない。
成熟した大人の男なのだと、時々気づかされる。
(俺、歳とってこんなになれるのか?)
そう考えてふと、不安になった。
周囲の大人たちはどれも落ちついた魅力を持った人間たちで、頭も良く、己とは人種が違うのだとすら感じる。
同い年の女の子と付き合う佐々木は、喧嘩もしているしうまくいかないときもあるようだが、同じレベルの悩みを共有しつつ、共に歩んでいける。
こちらは、ずいぶんと前方にいる男の背を、必死に追いかけるしかない。
常に全力疾走している。だから疲れる。
だが長畑は自分が大声で「待って」と叫んだから、その地点で自分が来るのを待ってくれているのだ。歩みを止めさえしなければ、いつか必ず追いつける。
考えなければならない事はたくさんある。
進路の事もそうだ。だがあの佐々木でさえ、将来の為に「勉強する」と決めたのだ。こちらはまだ目標すらないが、オロオロしているわけにもいかない。

(──俺、しっかりしないとな)

夕暮れどきの街中で、八束は密かに拳を握りしめ誓った。
「ねぇ八束君、ちょっと聞くんだけども」
八束が心の中で「頑張る!」と決心していたとき、唐突に隣を歩くグラハムが話しかけてきた。
「君ってさ、パスポートって持ってる?」
「え?」
よく話の流れが理解できず、八束は眉を寄せて問う。
「持ってないですけど」
「えー。作ろうよ。諭吉一人ちょっとで作れるでしょうに。身分証明書」
「身分証明書にするなら免許取りますよ」
「そりゃ、免許いるだろうけどさー。最近の高校生って修学旅行で海外行ったりするんでしょ? 持ってるんだと思ってた」
「うち、修学旅行は北海道でしたから。公立ですから、そんな金かかる旅行はあんまり……って言うか何ですかいきなり」
八束が見上げて問うと、グラハムはあくどい事を思いついたような表情で、こちらを見下ろしている。
「私がこっちに来れないのなら、君たちが来ればいいじゃない」
「……」
なんかマリー・アントワネットみたいな事を言い出したなこの人、と八束は目の前の長身の男を見上げる。
「俺が、って言うか、長畑さん連れて帰りたいだけでしょ?」
そう呟くと、グラハムが少々驚いたようにこちらを見た。
「……やはり君は聡いな。ばれてるとは」
「いや、大体考えてる事はそこでしょうから」
この男の考えている事は、常にそれだ。長畑中心で考えているので、非常にわかりやすい。
グラハムはむぅ、と渋い顔をする。
「まぁそれは山々なんだよ? あの子が帰らないって言うなら、逆に私がくればいいじゃないと思って来てるわけなんだけどね。でも今回はちょっと切実。いろいろ事情がありまして」
「事情?」
八束が疑問を浮かべて問うと、グラハムは大人しく頷いた。
「あの子のご両親のお墓、向こうにあるのは知ってるよね?」
八束が頷くのを見ると、グラハムは言葉を続けた。
「古い墓地なんだけど、ちょっといろいろあって墓地の改修やら移動があってね。少し場所を移すことになったの。もちろんそのあたりの手続きは私やるけど、そんな事になってるんだから一回くらい帰って来たっていいでしょう?」
「それは……」
確かに、帰った方がいいと思う。
「私と揉めたから帰って来たくないってのはわかるんだけど、それとこれとは別だからね。でも私が帰れって言ったって、あの子は頑固だからうんって言わないと思う。こじれてまた喧嘩しても嫌だし……だから君、うまい事言ってやってくれない?」
「……俺がですか?!」
八束は思わず立ち止まって叫んだ。
「うん。君が『イギリス行きたい!』って言うのなら、あの子も来るしかないかなぁって」
「いや、無理ですよそんなの! って言うか俺んち海外行くような金ありませんし!」
「君の旅費代、私が出せばいいじゃない。泊まるところはうち来ればいいんだし」
「いや、でもそんなうん万円も……」
「あの子が来てくれると思えば安いもんですよ」
グラハムは八束の前でぱん!と両手を合わせた。
「ほんと、頼むよ。君だけが頼りなんだから……!」
「……」
心底お願いされているのはわかったのだが、どうすれば良いのだ。
誕生日プレゼント買ってあげるから、というのも、きっとこのためだったに違いない。
(……大人って汚い)
八束は、はぁ、とため息をついた。
グラハムの気持ちもわかる。長畑も一度は英国へ帰った方が良い、というのもわかる。
だが長畑が、見かけによらず非常に頑固で、意志の固い人間だと言うのも知っているのだ。
「説得なんて無理」と思うのだが、八束の手には誕生日プレゼントと言う名の賄賂がある。
──無視できない、自分の性格が嫌になってきた。
「学校もあるだろうし、夏休みとかで良いからさ。ね!」
お願い! とグラハムはしつこく八束に食い下がる。
まだ見ぬ国、イギリス。
そもそも海外なんて興味がなかったので、八束はパスポートの取り方さえわからない。
「……ちょっと言ってはみますけど、期待はしないで下さいよ」
八束としても、長畑のデリケートな問題にはあまり触れたくないのだ。
「大丈夫だよ。あの子、君には甘いもの」
「その自信はどっから来るんですか……」
八束は再度ため息を吐きながら、この事情をどう説明すべきか、考え始めた。

悩み事は、また増えた気がする。
(終)