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棘なしの薔薇

棘なしの薔薇


「長い事借りっぱなしで、ごめんなさい」
その日のバイト終わり。
八束は、台所のテーブルの上で何やら書類を広げて読んでいた長畑に、一冊の本を差し出す。
一瞬きょとんとした長畑は、本の表紙を見て、「あぁ、そういえば」というような顔をしてみせた。
「……きちんと、読めた?」
穏やかな笑みで問われて、八束は苦笑いしつつも頷く。
「最初はちょっと、意味わかんなかったですけど。何回か読んでるうちに、なんとなく」
今返した本。
それは、八束がここに入ったばかりに長畑から借りた、バラの専門書だ。
「多少用語がわかったほうが馴染みやすいかも」と貸して貰ったのだが、当たり前のように書いてある専門用語の意味が、最初はさっぱりわからなかった。
それでもせっかく借りたのだから読まねばと思い、寝る前などに繰り返し読んでいた。
仕事を手伝ったりするうちに、「あぁ、これはこういう事を書いていたのか」と気づくこともあり、多少は身になったのではないかと思う。
その本は情報としては少々古い物だったが、八束は本に時折書き込まれている、長畑の字を眺めるのが好きだった。
几帳面な性格通り、この男は丁寧な字を書く。
それを眺めていると、彼の後を追いかけているようで、楽しかったのだ。 ……だから、返すのがとても遅れた。
気が付けば本を貸して貰ってから1年経とうとしている。
返せと催促もされなかったし、それに甘えてしまったのだが、さすがにこんなに長く借りっぱなしもまずいと思い、今日慌てて鞄に入れてきたのだ。

「……で、長畑さんはなに見てるんですか?」
「これ? これは、今年の新品種のカタログ。面白そうなのがあったら、取り寄せしようかなーと思って」
長畑が嬉々として言うので手元を覗き込んでみれば、冊子状のそれにはカラフルで様々な形をしたバラの写真が並んでいる。
だが、書かれている文字は全て英語だ。
海外の農場のカタログらしい。
「……」
「君、今『うわっ』って顔したでしょ」
「し、してませんよ。って言うか、俺はそこまでスラスラ読めませんし」
英語は、相変わらず苦手だ。
だがこれまでの「別に喋れなくたっていいじゃん、日本から出ないし」という考えは改めた。
いろんな人間と接するうちに「いつどこで何が必要になるかわからない」と思うようになったし、長畑を見ていると、話しかけられても英文書を手渡されても、スムーズに対応できるのが格好いいなぁと思うのだ。
外国に長年いて、英語で喧嘩OKの男とすぐ同じレベルになれるとは思えないが、せっかく今学校でも習っているのだし、もうちょっと真面目にやろうとは思うようになった。
とは言っても、授業やテスト勉強の際に多少気合を入れるくらいで、具体的に何かしているわけでもない。
そこが駄目なのだと、八束も思ってはいる。
「……これは、イギリスのブランドですよね?」
「そうそう。よくわかったね」
長畑がカタログに視線を落としたまま頷く。
八束も全く読めないというわけではないし、カタログにあるロゴには見覚えがあった。
業界ではかなりメジャーな、育種家のブランド。
毎年様々な新品種を生み出し、歴史に残るような「名花」を今までいくつも生み出しているところだ。
その人物がイギリスに農場を持っていると言うのは、八束も知っている。
(イギリス……)
カタログを見入る長畑の横顔を、立ったまま見つめながら、八束は心の中でつぶやいた。
八束はグラハムに、「長畑をイギリスに連れてこい」と言われている。
グラハムがしばらく忙しくて、「自分が行けないからそっちから来い」というだけの話でもない。
長畑の両親の墓所の移転だとかそういった問題も絡んでいて、そういったものを向こうで管理しているグラハムから見れば「こういう事もあったんだし、そろそろ帰って顔くらい見せなさいよ」という事だ。
彼の言い分も、わかる。
だが当の長畑がどういう気持ちでいるのか、八束にはよくわからない。
こういった家庭の事情というのは、他人の定規で勝手に知ったような事を言われても腹立たしいだけだ。 それは八束にもわかるし、家族写真も思い出も大事にしている長畑が、両親に対しての愛情がないというわけではない事も、知っている。
だが、彼は帰りたがらない。
グラハムが言うには、どれだけ言っても「帰らない」と答えるらしい。
今までは、グラハム本人と揉めていたから、というのもあるのだろう。
だが今はもう普通に話しているし、それが障害になっているようには、八束には見えなかった。
──遠いから? 忙しいから?
そのどちらでも、あるのかもしれない。
(そもそも、この人お墓の事知ってんのかな……)
そう考えて、知らないはずもないよなぁ、と思い直す。
グラハムもあまり人の話を聞かない男ではあるが、あれでまめな男だ。なにかあれば、かならず連絡くらい入れているだろう。
それも話した上で駄目だったから、最終手段でこちらに泣き付かれた、とも言える。

──あの男が言って駄目なのに、自分が言ったところでこの男は動くのか?

そうじっと見つめていると、ふいに長畑の顔がこちらを向いた。
「……どうしたのさっきから。何か言いたげだけど」
「あ、いや」
まずい、と思った。
困惑が顔に出ていたらしい。
「……えっと、その……長畑さんって、向こうでも庭師さんだったんですよね?」
「うんまぁ。農場で働いてたし」
「ど、どんな感じでなったのか知りたいなって……向こうの様子とかも。その、最近進路で悩んでるので、参考に」
聞きたくて、と八束は笑いながら言葉を濁した。

──なんだか、おかしな方向に話を流してしまった。

相当、こちらは挙動不審だったのだろう。
長畑は、少々不審なものを見る目で、八束を見ている。
(……やばいやばい超見てる)
この男は対人面では少々鈍かったりするのだが、八束の動揺だとか、そういったものはあっさりと見抜く。
「それは君がわかりやすいからだよ」と以前、苦笑されながら言われた事がある。
そのときは喜んでいいのか感情が筒抜けな自分の阿保さ具合を呪えばいいのか、よくわからなかった。
だが、グラハムとの「密談」がばれたら、この男は良い顔をしないかもしれない──そう考えると、背筋に汗が流れる。
ただでさえ機嫌を損ねると面倒な男なのに、信用を失うというのは非常に恐ろしい。
そもそも、こんな問題に自分などが首を突っ込んでいいのか。
確かに恐れ多くも「恋人」ではあるが、一回り近く年下のこちらが、そんな家庭事情に首を突っ込んでいいのか。
生意気、だなんて思われたくない。
どうしよう、と笑いながら固まっていると、長畑が少し、口元に笑みを浮かべた。
「……まぁいいけど。それなら座りなよ。何か飲む?」
「あ、いいですよ俺が」
「いいよ。たまには僕が入れる」
そう言ってカタログをそろえ机の上に置くと、長畑は席を立った。
なんとなく緊張から解き放たれて、八束はふぅ、と息を吐きだす。
(首の皮がつながったのかなんなのか、よくわからない……)
額に滲んだ冷や汗を拭いながら、八束は向かいの席に着く。
(この人、妙なところで鋭いんだもんなぁ……)
そう心に思いながら、八束はテーブルのわきに置かれた、読めもしないカタログを手に取った。


目の前には、暖かな湯気を立てるほうじ茶が、マグカップに入って置かれている。
それを両手で、包み込むように持ってみる。
じんわりとした温かさが、指先を通して伝わってきた。
「……考えてみたら」
一口茶を飲み、長畑も向かいの席に腰を下ろしながら、こちらを見た。
「君、今年で卒業だものね。先の事、何か考えてるの?」
にっこりと穏やかに問われ、八束は少々俯いた。
思いきり話を逸らしたせいで急遽進路相談会となってしまったが、そちらで悩んでいるのも事実だ。
「……考えてない、わけじゃないとは思うんですけど……なんだか、気ばかり焦って決められなくて」
この間学校から配られた進路希望表は、一応「就職」で提出している。
だがどういった職種に行きたいとか、そういった事はまだ決める事ができない。
通う高校は、元々は進学校の普通科だ。高校生相手の求人など、そう沢山は来ない。
こんな事なら工業科だとか商業科だとか、そういったところに行っておけば良かったのかもしれないだなんて思うが、今更言っても仕方のない事だ。
家庭の金銭的な問題もあるし、進学というのは厳しい。
だか決められない。
「……すみません。助言貰おうにも、俺何も決めてないし、漠然としすぎですよね」
「いやでも、そんなものじゃないのかな? 確かに卒業までに決めなきゃって思うと、焦るだろうし」
「でも、長畑さんは俺くらいの時から、もう決めてたんでしょう? 庭師になるって」
「……いや?」
軽く否定されて、「え?」と逆に八束は問い直した。
「君くらいの時は、そうなる気はなかったよ。稼げると思えなかったし。植物は好きだったけど趣味でいいやと思って、大学行ったから」
そんな話は初めて聞いたので、八束は驚いた。
「え……長畑さんって、大卒?」
「でもないんだよね。僕、途中で辞めてこっちになってるから。真っ直ぐこうなったわけじゃないし」
「だから、僕じゃ良い参考にならないかも」と長畑は苦笑いを浮かべる。
「えっと……じゃあ最初は、何になるつもりで?」
八束が遠慮気味に問えば、長畑はマグカップを持ち、笑った。
「僕はね、君くらいの頃は、技術者になりたかったの。電気製品の基板とか回路とか、そっち系の。だから大学の学科は理工学だった」
「……全然方向違うじゃないですか」
「だから、真っ直ぐ来たわけじゃないって言ったんだよ」

この男は、とても細かい仕事をする男だ。
作業着姿を見慣れているので、技術者という言葉にあまり違和感は感じない。
言われてみれば数字に強く、雑誌の隅に数独ゲームが載っていれば、密かにやり終えていたりする。
「工作大好き」発言といい心霊現象否定派である事といい、確かに理系らしい男だとは思う。

「じゃあ、なんでこっちに方向変えたんですか?」
「うーん……何でかな。特に理由はないんだけど」
長畑は腕を組み、少し考えた。
「理由と言うなら……勉強が面白くなくなってきたからかな。ろくでもない理由なんだけど」
「それは、なんで……?」
長畑らしくない理由だと思ったので、八束は首を傾げつつ言う。
しかし長畑も、そうなった理由と言うのはよくわからないらしい。彼も首を傾げている。
「入って1年経ったころかな。成績も悪くなかったし、今でもそういうのいじくるの好きなんだけど。何故か突然やる気が出なくなってきて。飽きた、のかも。それで、フラフラしてた時期があってね。で、学校さぼってうろついてたとき、街中で綺麗な庭を見て、うちの家の庭もこんな綺麗だったなぁって思い出した。こういうの勉強したら楽しいかなぁって。それがこっちになったきっかけかな」
「……長畑さんも、学校さぼったりしてたんですか」
そっちが意外だ、と八束は思う。
「君が思うほど、僕は真面目じゃなかったよ。若い時は結構遊んでた」
お茶を飲みながら、長畑は苦笑いをした。
八束は真面目なこの男しか知らないので、「遊んでいた時代」というのがさっぱり想像できない。
「……それで、庭師に? どうやってなったんですか?」
「うん。夏休みにね、こういうとこのバイトを見つけたの」
長畑は先ほど見ていたバラの新品種のカタログを、ぺらりと八束に見せた。
「興味があったから、ちょっと遠かったけど住み込みで行ったよ。ひと夏働いてそのまま大学辞めて、こっちにシフトした感じかなぁ。でもこっちで良かったって、今は思うよ」
静かに笑いつつ、長畑は言った。

この男は、非常に頭が良いらしい。
接していても頭の回転は速いと思うが、グラハムも以前「あの子、すごく出来が良かったんだよー」と言っていたのをちらりと聞いた事がある。
きっと大学に残って卒業して、その道の職についていたとしても、長畑はそれなりに結果を残したのではないか、と八束は思う。
だがこの男は今、片田舎で農家兼庭師という、全く別方向の生き方をしている。
だが活き活きとして見えるし、楽しそうだ。
本人がこちらで良かったというのだから、今はそれなりに充実しているのだろう。
八束は、素直に羨ましいと思った。
そういうものに、早く出会えた事を、だ。
とは言っても元々彼は植物が好きで、過去に住んでいた家の庭が好きで、それをふと思い出しただけなのかもしれない。
もともと一本の道を進んでいたと言えばそうだし、回り道したと言えばそうだ。
「長畑さんの今の夢って、なんですか?」
「夢?」
「今後、どうしたいとか、そういうのあるのかなって」
八束の言葉に少し考えて、長畑はテーブルの上の、新品種のパンフレットを再度指差した。
「僕は、やっぱり……こうなりたいかな」
「こう?」
「僕もやってるんだけどね。こういう新しい品種をつくる事。こればっかりは計算でどうにかなる世界じゃないし、綺麗な花ができても、病気に弱くて売り物にならないとか、なかなか難しくてね。だからこそ面白くもあるんだけど。僕はこういう個人のブランドいうか、世界中で愛してもらえるような花がつくりたいね。先は長いだろうけど」
「……」
即答できる長畑を、八束は尊敬した。
自分にはこの男は「完成」しているように見える。だがこの男は、まだ先を目指している。
ここが到達点ではないのだ、とばかりに。
急いで立たねば、差が全く埋まらないような気がしてきた。
「……長畑さんなら、できると思います。バラ愛、半端ないし」
「ありがと。……八束。僕もね、君に言っておこうと思ってたことがある」
「え」
意外な言葉に、八束は目を丸くした。
顎下で手を組んだ長畑は、固まる八束に対し、柔らかく笑いかけた。
「君は、これからいろいろ選ばなきゃいけないだろう。それは君が決めなきゃいけないもので、僕が口を出す事ではないと思ってる。僕の存在だとか、そういうものを抜きにして決めてほしいと思ってるしね。僕は、君が何を決めたとしても、何も言わない。応援してあげたいって思ってる」
「……」
八束は、黙って目の前に座る長畑を見つめた。どう反応していいのかわからなかったのだ。
じっと、そんな事を言う男を見ていると、長畑も、八束をじっと見つめてきた。
「……ちょっと、反省はしてるんだ。僕は自分の事ばっかりで、君を付き合わせてばかりで……いろいろ見せてあげるのは、僕の役目だと思うのに。いろいろ足りてないなと思って」
「いや、そんな事はないですよ。特に何かしてほしいわけじゃないですし……!」
慌てて八束は否定した。
別に、彼にどうしてほしいとか、そういうものを期待して好きだと言ったわけでもない。
好きで好きでたまらないから、邪魔をしないから近くにいさせてほしい。
こちらは、それだけだったのだ。
こちらこそ、長畑の為に何かできたとは思えていない。
(……足りてないのはこっちだ)
世話になりっぱなしなのも、こちらなのだ。
少し変な空気になってしまった、と八束は思った。
気まずいような、沈黙が流れる。

「……あの」

言葉を出しづらい雰囲気の中、八束は恐る恐る、長畑に声をかける。
「確かに俺は、この先どうなるかわからないですけど……それを理由に別れたいとか、そういうのは絶対ないです。そういうの考えた方が、俺は怖いです」
少々うつむきがちに、八束は言葉を吐き出す。
自分は、この男と対等になりたいと思っている。だが今の自分は、いろいろなものが足りない。
追いつこうとする過程で、この地を離れる事になる可能性も、確かにある。
でもせっかく掴めたこの男の手を、自分から放す事なんて絶対にないと思った。
──追いつきたいのだ。
可愛がられているだけの子供ではなくて、一人の男として認めてほしいのだ。
この男の為だ。
自分がしっかりしたい、目標を見つけたい。そう思うのは、全てこの男が好きだからなのだ。
そういった感情を込めて見つめる八束を、長畑は落ち着いた表情で受け止めている。
「……僕もね。なりたいものは君が好きに決めればいいとは思うし、そのためにはどこに行ってもいいと思うよ。でも」
長畑の薄い唇が、ゆっくり弧を描く。
「気持ちも離れていいだなんて言ってるわけじゃないよ。君は、僕のものだもの。今更ほかの人間になんてやれない」
──僕のもの。
真顔で言われて、一瞬意味も分からず、ぞくりとするものを感じた。
だが長畑はすぐにこりと、笑みを浮かべる。
さらりと音もなく静かに絡みついてくる、この男のこういうところは、少し怖い。
だが八束だって、「この人俺の」と思っているわけだ。嫉妬深さと執着具合は大して変わらないはず、と思い直す。
「まぁ、君がそう思ってくれてるならいいよ。で、話はそれだけ?まだあるんじゃないの?」
「え……」
軽く頬杖をついて、長畑が笑いながらこちらを見る。
こちらが驚いたような表情をしたせいだろう。長畑の顔が少々意地悪く「やっぱり」という表情をした。
(やっぱりなんか見抜かれてた……!)
本題に入る前に相当「顔面百面相祭り」を繰り広げたのだろう。
進路相談だけでもあるまいと、長畑は思っていたようだ。
「……」
八束は悩む。
誤魔化すの性に合わないし、嘘をついたところでいずればれる。
嫌な顔をされるのを承知で、八束は正直に切り出すことにした。
「……俺、グラハムさんから聞いたんですけど。長畑さんのご両親のお墓、場所移すって……聞いてますよね」
「聞いてる。なんかあの辺りの道路の工事したら、水脈の関係か地下水出てくるようになったとかでね。じめじめ湿って居心地悪いだろうから、移そうかって話は、結構前からしてたんだよ」
古い墓地だからねぇ、と長畑は少し呑気に答えた。やはりその事自体は、かなり以前から聞いていたらしい。
「……僕に帰るよう言えって、グラハムから言われた?」
笑いながら、長畑が小首をかしげる。
その笑顔がちょっと怖くて、八束は引きつった。
「あ、いやそういうわけじゃ……まぁ、そうなんですけども」
八束が「すみません」と頭を下げると、「いやそれは別に」と長畑は茶を飲み干した。
「君らは仲良しだからね。なるほどそう来たか、と思った」
ことん、空になったマグカップが、テーブルに置かれる。
八束はそんな目の前の男の動作を黙って見つめながら、視線を上げた。
「……俺が口挟む事じゃないってのも、わかってます。でも、なんでなのかなって。帰りたくない理由とか、あるんですか?」
「理由、ね」
八束の言葉を噛みしめるように、長畑は視線を落とした。
少しだけ、沈黙があった。言うべきか言わざるべきか、長畑はそれを考えているようでもあった。
「……だよ」
「え?」
囁くように言われて、よく聞き取れず、八束は聞き返す。
「意地だよ。……決めてたんだ。あの男が僕を認めるまで、帰らないって」
「あの男って」
(グラハムさんの事?)
八束が誰を思い浮かべたのか、長畑にはわかったのだろう。小さく、頷いた。
「僕は、彼と喧嘩して出て来たからね。僕も悪かったけど、向こうも散々いろいろ言ってくれた。だから、もしあの国に「帰る」なら、彼が僕を認めてくれるような仕事ができたときだって決めてた。そうなれるまでは何があっても絶対逃げて帰らないって、できるって事を証明した後だって決めてた。くだらない意地だよ。僕は、できないって思われることが何よりも嫌い」
「……」
八束は、長畑の強固な芯のようなものを見た気分になった。
彼がもともと非情に負けず嫌いで、弱みを見せたがらないプライドの高い男だという事は知っている。
両親の死にも涙を流さなかったという彼。日々穏やかに笑って生きながら、一人のときはとても勉強熱心な彼。
海の向こうからこんな田舎にやってきて、やりたい事をやりながら自立していくというのは、想像できないくらいに大変だったのだろう。
彼は、その意地でここまでやって来たという事だ。
日本に帰る事を反対した、あの男に自分を認めさせてやるのだという一心で。

(でも、あの人とっくに認めてるんだろうけどなぁ……)

八束は、今はイギリスにいる男の顔を思い浮かべた。
グラハムはここに来たときから、彼の庭を綺麗だと言っていたし、認めていないわけじゃないと言っていた。
八束にはそう、ぽろっと言ってみせたが、長畑にはそういう事を言っていないのかもしれない。
もしくは言ったが、長畑はまだ「認められた」と感じていないのか。
あの男も勢いでいろいろ言ってしまった手前、今更褒めづらいのか。
八束がいろいろと考えていると、少々固い表情でそう言い放った長畑は、悩む八束を見ておかしそうに笑った。
「まぁ、こんな事を言ったってしょうがないんだよね。今はやりたいようにやるだけだって思うし、逆に褒められでもしたら、今まで張りつめてた気がぬけそうで怖いよ」
「……長畑さん」
あはは、と笑いながら言うこの男を、八束は複雑な気持ちで見つめた。すると、目が合った。
「ねぇ、八束」
「はい」
「多分ね、一年前の僕だったら、君にこんな事問われても、「君には関係ない」って突っぱねてたと思うんだ」
「……はい」
それは否定しない、と八束は頷く。
「僕は頭が固くて、融通が利かない。自分の保身でいっぱいいっぱいだった。君は思慮深いけど、最終的には壁に大穴開けて侵入してくるような子だからね。いろいろ痛い事言われて、僕も言い返して、傷つけた事もあるだろうなと思って。……ごめんね」
八束は、首を横に振った。
別に傷ついてはいない。こちらがしつこくまとわりついて、煩わしい思いをさせたのでは、と逆に不安になっているくらいだ。

「……今はね。ちょっと、帰ろうかと思ってる」

意外な言葉に、八束は目を丸くした。
長畑からそう言うとは思わなかったからだ。
「いろいろ墓前で報告もしたいし……僕が顔見せてあの男が喜ぶなら、それもいいかなって。できたら……君も一緒に来てほしい」
「え。……俺、もですか?」
八束が驚いて自分を指差し言うと、長畑はにっこりと笑った。
「君にもいろいろ見せたいんだよ。あぁ、旅費の事は心配しないで。僕出すから。君も忙しい時期だろうから、無理にとは言わないよ。しばらく考えておいてくれたら、嬉しい」
そう言うと、長畑は席を立ち、空になったマグカップを流しで洗いはじめた。
「……」
ざぁざぁと流れる水の音を聞きながら、八束は黙って、長畑の背を見つめる。
言いたい事は、あった。
行っていいのかとかそこまで甘えるのは悪いとか、グラハムにも来るならお金出すよと言われている事とか、パスポートの取り方がわかりませんだとか。
だが、言葉にならない。
──君と一緒に。
そう言ってくれるのは、とても嬉しいのに、すぐに即答できない自分が情けない。

胸の中をぐるぐると、洗濯機の中身のように、感情がごちゃまぜになって回る。
スイッチの止め方がわからない。
八束は気持ちを落ち着けるように、冷めたお茶を一気に飲み干した。
(終)