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バラ園と新たなる季節

07 周囲がカオス


八束は友人の方を見たまま固まった。
脳が霧島の言葉を理解できていなかったのかもしれない。
──好き、かも?
唐突過ぎて、どうしたらいいのかわからない。
冗談なのかとも思ったが、今の流れでこれはどうなのだ。霧島は、笑えない冗談をかっ飛ばすような男でもないように思える。
少々真剣な顔でこちらを見ていた霧島は、しばらくすると凍りついた空気を和らげるように笑った。
「……悪い、今のは冗談。忘れてよ」
そう言うと、彼は立ち上がりベッドの上まで戻った。普段の彼の定位置なのだろうか。そこへ腰かけて、八束を見る。
「なんていうか、同級生と話すなんて久しぶりだから……うまく、言葉伝えられないのかな。ごめん」
霧島は申し訳なさげに言った。
(俺もよくわからない……)
八束は反応に困っていた。
霧島は今の言葉を「冗談」にしたいのだろうか。彼自身も戸惑っているような言葉だった。
好き?
彼は自分の事を良い奴だと言ってくれた。だが友人としての好意を表現するのに、今の流れは少々おかしい。
そう言ってしまったことを後悔しているような霧島の顔を見つめていると、目が合った。
「……気持ち悪い?」
霧島の申し訳なさげな問いかけに、腹の奥の方がぎゅっと痛くなった。
彼は自分の言葉に対してそう言ったつもりなのだろうが、八束は自分自身の事を指摘されたような気持ちになっていた。
自分が初めて好きになった人というのは、男だった。
確かに未だに迷うことはあるが、それを理由に諦めるなんてできなかった。
だが、自分のそんな気持ちも、何も知らない他人から見れば「気持ち悪い」のかもしれない。
たまたま、それを知ってもそうは言わない、優しい人たちに囲まれているだけで。
「……気持ち悪いとか、そういうのはない。誰を好きなったって、それは人の自由だろ? 本気なら、いいじゃないか」
八束は膝の上で拳を握りしめながら、言う。
霧島に言っているのか自分自身に言っているのか、よくわからなくなった。
誰を好きになろうとそれは人の自由だ。
意中の人間にほかの人間が好意を寄せるのも自由だし、友達だと思っていた人間が自分にそんな気持ちを抱いていたとしても、それは責められるものじゃない。
「八束はそのあたり、寛大なんだ。……別に好きな人、いるだろ?」
「え」
思わず素直な反応を返した八束に、霧島は笑った。
「やっぱり。なんかむきになるから、そうなんだろうなと思った。それ、片思い?」
「……いや」
八束は首を横に振った。
「そっか。でも、八束にそう思われる人って、幸せだろうなと思うよ。なんか、一生懸命思ってもらえそう」
「そ、そうかなぁ……」
八束は小さな声で、自信なさげに言った。
一生懸命というか、自分には余裕がないだけだと八束は思った。
あの人が幸せかどうかなんて、思いやる余裕もない。
自分がどうしたらいいのか、そればっかりだ。

少々微妙なもやもやは残ったが、静かで穏やかな霧島との会話は、八束にとっては不快なものではなかった。
彼はそれきり、あの話題には触れなかった。「気の迷い」にしてしまいたいのだろう。
「そろそろ俺、帰るよ。あんまり遅くなっても悪いし」
八束はそう言うと立ち上がった。時刻は夕方の6時前。学校が終わってからすぐここへ来たので、意外に長居してしまっていたらしい。
「親へのアピール、大丈夫そう?」
そう問えば、霧島は苦笑した。
「おともだち、の顔見たから多少安心したんじゃないかな。こっちこそ、無理言って来てもらったのに変なこと言って、ごめん」
「あ、あー……いや」
八束は困りながら、首を横に振った。
「俺は気にしてないよ。別にそれでもう話したくないとか、そんな事は思ってないし。明日、佐々木には一応声かけてみろよ。俺もフォローはするからさ」
「……うん」
霧島が頷いたのを見届けて、八束は床に置いていたカバンを掴む。
「帰り、何なら送るように言うけど?」
「送るって?」
「車」
あの陽気な運転手さんか、と八束はここに来たときの事を思い出した。
「いいよ、俺学校に自転車置きっぱだし」
歩いて学校まで帰る、と言いながら霧島の部屋を二人で出たところで、目の前に立っていた男に思わずぶつかりそうになった。
「あ、すみませ……」
慌てて顔を上げた八束は、あ、と固まった。
目の前に立っていたのは、スーツに眼鏡の賢そうな若者。
霧島の兄だった。少々驚いたような顔をして立っている。
「……立ち聞きかよ。趣味悪」
部屋の目の前にいた兄に向って、霧島は眉を寄せて不機嫌そうな声で言う。
「そんなんじゃないよ。八束君が来てるって言うから、挨拶しようと思って部屋の前に来たばっかりなんだから、今」
弟に笑いながらそう言って、「こんばんは」と霧島兄は八束の方へ顔を向けた。
「……どうも」
なんか毎日会ってるなぁ、と思いながら八束は少々複雑な思いで頭を下げた。
「父さんは?」
霧島の問いに、霧島兄はにんまりと口の端を上げて笑った。
「綺麗なお姉さんたちと、お酒のお付き合い」
「……兄貴は行かなくていいのかよ」
「後で迎えには行くよ。先生たちの秘密のお話なので、今日は僕は不参加です」
(なんか、すげぇ話してるなぁ……)
八束はこの家の兄弟のやりとりを聞きながら、縁のない世界の事に想像をめぐらしていた。
綺麗なお姉さんにお酒を注いでもらいながら、偉い先生たちの秘密のお話。
──「おぬしも悪よのう」くらいの、半分時代劇が混じったようなイメージしか出てこない。
(……俺の脳みそも貧相だ)
八束は己の思考の安っぽさに内心ため息をついた。
この兄弟にとっては、そんな話も身近な話題なのだろう。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、八束君もう帰るの? せっかくだからご飯どうかって、母親が言ってるんだけど」
え、と八束は固まった。
「そ、それは有難いんですがご遠慮します……うちも親に何も連絡してないですし、用意しているだろうから」
有無を言わせない距離の縮め方だなぁ、と八束は思う。向こうは好意の塊なのだろうが、こちらとしては戸惑うだけだ。
「なら、学校の前まで送りますよ。自転車なんでしょう?」
「……」
──やっぱり微妙に、話を聞かれてたんじゃないか。
うまく断る言葉が浮かばず固まる八束の肩を、霧島が無言でぽん、と叩く。
言い出したら聞かないからあきらめろ、と憐みにも似た視線が言っていた。
霧島兄は、頭上からにこにことした笑みを送っている。
「は、はい……」
ありがとうございます、と八束は棒読みでつぶやいた。
霧島はそうでもないが、兄の方はやはりどこか苦手だ、と八束は思った。


「なんだか君には、お世話になってばかりだね」
霧島宅のガレージに停まった車の運転席で、霧島兄は穏やかに言った。
「母親も喜んでいましたよ。久しぶりに友達を連れて来たと。いい子そうで安心したとも」
「そ……それならよかったんですけど……」
助手席であはは、と苦笑いを浮かべながら、八束は隣の男の横顔を見た。
この男は、長畑に好意を抱いている。
少なくとも八束はそう感じている。だがいきなりそんな事を問い詰めるのもおかしな話だ。
弟の方とはなんとなく距離が縮まりつつあるが、兄の方はほとんど知らない。
28歳。
職業は議員秘書。
義理堅くて丁寧な性格。知っているのは、その程度だ。
そう思うと、少し興味がわいた。
「……政治家目指してる、って言ってましたよね」
「はい」
八束の問いに、霧島兄はこちらを見る。
「すみません、俺そういう業界の事あまり知らないからただの興味本位なんですけど……なろう、と思った理由とか、あるんですか?」
そう問えば、霧島兄は少し意外そうな顔をして、八束を見た。
「そうですねぇ……僕にその理由を聞いてくれた人は、君が初めてかもしれません」
「え?」
意外な返しに、八束は口を開けて隣の男を見た。
「みんな、理由は聞いてくれないんですよね。家は代々議員です。祖父もそうでしたし、父親もそうです。周囲は僕も将来そうなるのが当然と思っていたようで。だからなる、と言った時も、特に周りは何も言ってくれなくてですね。拍子抜けですよ」
ちょっと寂しかったです、と霧島兄は思い出すようにくすくす笑った。
「でも、僕は周囲に染められてそうなりたい、と思ったつもりはないんです。こう言うと性格が悪いと思われるかもしれませんが、僕は負けず嫌いです。目立つのが好きな男です。一番が好きな男なんです」
「……意外、です」
八束は心底そう思った。
この見た目、知的な男は、あまりそういった野心というようなものを感じさせはしなかったからだ。
八束の言葉に、霧島兄は微笑むだけで返した。
「そういう性格でしたから、将来の事を考えたとき、政治家と言うのもおもしろそうだと思いました。自分の考えを表現できて、何より自分をアピールしていかなければならない仕事ですからね。目指せる環境は、整っていましたし。まぁ、それだけの気持ちでできる程甘くはない業界ですから、今、父のもとで学んでいます。世襲だから、なんて馬鹿にされたくはないですからね」
「……将来的にはやっぱり、県議とか?」
「まぁできるなら国政とか行きたいですけど。でも今は、できる事から学んでいかないと」
まだ未熟なので、と霧島兄は謙遜しつつ笑った。
この男は政治家を目指している。
自己顕示欲が強かったから、と本人は言うが、それもまた理由の一つなのかもしれない。着実に、その道は歩んでいるのだから。
「八束君は、何か将来の事とか考えていたりするんですか?」
霧島兄の問いに、口ごもる。
「……俺はそういう、目標とか夢とかまだわからなくて。人に言える様なものは、ないんです」
そういったものが明確な人間に会うと、少々恥ずかしい。
ぼそぼそとした声で言うと、霧島兄は笑顔を浮かべた。
「歳を重ねてからそういうものに気づく人間もいますよ。十代ですべて決めよう、なんて難しいと僕は思いますけどね」
弟も多分深くは考えていないですよ、と笑う。
そうだろうか? と八束は考える。
長畑も、グラハムも、この男も。
己が今いる位置に対して、明確な「意思」というものを感じる。
長畑は幼い頃から植物が好きで、バラの咲いた庭が好きで、専門的な知識と技術を身につけて、日本に帰って夢を叶えた。
グラハムの事は詳しく知っているわけではないが、「造るものを考えるのが好き」と言っていた。異国の木造建築に興味があって日本に留学していたというくらいだから、建築士になるという明確な目的というのは、若いころからあったのだろう。
そして、この男もそうだ。
確かに議員家系には生まれているが、本人なりに納得し道を進んでいる。
自分には、そういうものがない。
別にそれがないと駄目だ、と言い切るつもりもなかったが、男として劣っている気持ちにさせられるのも事実だった。
その劣等感が、己の自信のなさの根本かもしれない。
少々落ち込んだのに気付かれたのだろうか。八束をフォローするように、霧島兄は穏やかに言う。
「若い時に遊んで経験積むのも大事なことだとは思いますよ。あぁ、弟には彼女とかいないんですかね? 僕から見ても、顔は悪くないと思うんですが」
「いないんじゃ、ないですかね……」
「そうかぁ。まぁ大人しいからなぁ」
霧島兄のぼやきに、八束は苦笑いで答えた。
今日、「好きかも」なんて言われたのは自分だ。だがそんな事を言えるわけもない。
「霧島さんこそ、出会いは沢山ありそうですけど、彼女とかいないんですか?」
「僕はまだ半人前ですし、そういう人はいません。出会いはあるのかもしれませんが、向こうから寄ってくるものにはあまり興味がもてなくて」
ため息をつきながら、霧島兄は車のエンジンをかけた。
「え?」
「僕から、追っかける方が好きなんです。ハードルは高ければ高いほど燃えます」
「こ、好みとかは?」
八束の問いに、そうですねぇ、と霧島兄は少し考える様な仕草をした。
「可愛い人よりは、綺麗な人の方が好きかもしれない。あと、大人しそうに見えるけどとても気が強いタイプ。たまりません」
「……」
目が合うと、にんまりと笑われた。
なんか、なんとなく、某人を連想させるのは気のせいだろうか。
「八束君はどうなんですか?」
動き出した車の中で、霧島兄は笑顔で問う。
「……俺は……俺も、美人で気の強い人、好きです」
「へぇ。おそろいですねぇ」
(……全然うれしくないけどな!)
楽しそうに笑う霧島兄に対し、八束は内心歯をぎりぎりと噛みしめていた。
話して、なんとなく霧島兄の人となりは見えてきた。
意外に自己顕示欲が強く、謙遜はするがプライドが高そうだ。
あと、手の内はなかなか見せてくれそうにない。

家に帰ったのは、7時前だった。
なんだかどっと疲れて、帰るなりに制服のまま、自室のベッドに直行して倒れ込んでいた。
既に帰っていた母親が八束の顔を見るなり「あんた何でそんなにやつれてんの?」と聞いたほどだった。晩御飯もほどほどにしか食べれなかった。
オーバーヒート、な気がする。
なんだかいろいろ考える事が多すぎて、まったく心休まらない。
好きとか好きとか好きとか。思ったり思われたり思っているのを知ったりで、自分はいったいどうすればいいのだ。
(……声、聴きたいなぁ)
どうしようもなく、長畑の声が聴きたい。
話したい、と思った。
携帯を、先ほどから握りしめてはいるのだ。
だが、長畑に用もないのに電話していいものかどうか。
迷ってしまって、携帯を開いたり閉じたりを先ほどから何度も繰り返している。
自分たちは恋人、なのだろう?
遠慮する事なんて何もないじゃないか、と言う自分もいる。
でも今の自分はひどく迷って彼の声を聴いて安心したいだけで、用事はない。ただそれだけの為に電話するなんて、うざいと思われないだろうか。構ってちゃんみたいで、嫌だ、という自分もいた。
自分が電話したところで長畑は嫌がらないだろうが、甘やかされているだけでは、自分は駄目なのではないだろうか、とも思う。
大人にならなければならないという感情と、心のどこかでもっと甘えたいと思っている感情が混じり合い、わけがわからない。
(……明日、どうせ会うんだし)
そう思っても、一度声を聴きたい、と思うとそればっかりになってしまい、携帯を捨てられない。
それで先ほどから何十分も悩んでいる。
架けるなら早い方がいい。夜遅くなると、余計に迷惑になる。
「……」
携帯の時刻を見て、八束は迷いながら彼の番号を表示する。
起き上がってベッドの端に腰かけると、ボタンを押した。
コール音がする。
心音が聞こえるほど、内心どきどきしていた。
ぎゅっと目を瞑る。
出てほしいのか、どうなのか。
こんな情けない自分に、彼はどんな反応をするのか。
しかししばらく鳴らしても、彼は出なかった。
留守電にも切り替わらなかったので、そのまま電話を切る。
今日の長畑の予定は知らないし、まだ帰っていないのかもしれない。運転中かもしれない。
携帯をベッドの上に置くと、八束はそのまま後ろに倒れるように寝っころがった。
こんな情けない自分をさらさないで良かったと思う安心感と、話せなかった失望感の両方が心に広がっている。
「ダサい……」
八束は小さく呟いた。
今の自分と言うのは、非常にかっこ悪いと思う。うだうだ悩んでばかりだ。

そのまま意識を失っていたのに気付いたのは、それから数分後の事だった。
なにか音がするのに気付いて、目が覚める。うとうとした頭で音のもとを探ろうとして──一気に、目が覚めた。
携帯のバイブ音だ。着信。
「も、もしもし!」
慌てて手に取って言った。
相手を確認する余裕もなかった。
『あ、もしもしごめん。電話した?』
「し、しましたすみません……!」
そうどもりながら言うと、電話の向こうで彼が笑った。長畑だ。
『ごめんね、ちょっと今出てたから、気づかなくて。どうしたの?』
「……あ、えっと」
どうしたの、と言われると非常に困る。理由なんてない。
「……ごめんなさい。ただ、声が聴きたくて」
『声? 僕の?』
彼の問いに、八束は電話なのにこくこくと頷いていた。
情けないなぁ、と思う。
「こんな事で電話して……ごめんなさい」
『君、謝りすぎ』
「すみません」
また謝ってしまった、と言って気づいた。それにしても情けない会話だ。
きっと長畑もそう思っているだろう。
しかし彼は、「用がないなら切る」とは言わなかった。
『疲れた声してるね。何かあった?』
「……いろいろ」
長畑の問いに、八束は苦笑いしながら言った。結局自分は、この人の優しさに甘えてばかりなのだ。
「だからちょっといろいろ考えてて。そしたら、長畑さんの声聴きたくなっただけなんです。すみません、忙しいのに」
『それは大丈夫。……君もまぁ、いろいろある年ごろだろうし』
はは、と彼も笑った。
怒られなかった事に少し安堵している。そして声を聞いたら、やはりちょっと安心した。気持ちが落ち着いてきている。
自分も現金だ、と思う。
「だから、もう大丈夫です。ありがとうございました」
『ねぇ。君、今家?』
電話を終えようとしたところに、長畑の声がかぶさった。
『もし君が大丈夫なら、ちょっと出てこない?』
「え?」
『軽くデートでもしませんか? って言っても、僕の晩御飯に付き合ってもらうだけなんだけど』
長畑が少々冗談めかして言った。
『あ、でももう君、晩御飯食べてるよねー。なら……』
「行きます!!」
そう、自分でも驚くくらい力強く言っている自分がいた。
電話の向こうで笑う声がする。
『わかった。なら、ちゃんとお母さんには僕と行くって言ってきなよ?』
わかりました、と答えて、待ち合わせ場所を聞く。
電話を切って、慌てて着替えようとして立ち上がると、姿見の鏡に自分の姿が写った。
先ほどの疲れた顔とはうって変わって、妙にきらきらしている自分が気持ち悪く、少々へこむ。
(デート……)
八束は拳を握りしめる。
その単語を、自分なんかが呟く日が来ようとは。
身体の重さは、どこかへ吹き飛んでいた。