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バラ園と新たなる季節

08 初デート、とは


家を慌てて出たのは夜の8時過ぎだった。
母親に「長畑と会ってくる」と言うと、簡単に「ああ、いってらっしゃい」になったあたり、あの人のうちでの信用も、随分なものになっているのだなと八束は思った。
ただ単に、我が家の面食い女性陣のお気に入りなだけなのかもしれないが。
バスに乗って駅方面へ向かう。
(夜に誘ってくれるとか、ちょっと珍しいな)
すっかり暗くなった景色をバスの中から眺めて、八束は思う。
いつもは暗くなる前に帰れだの、遅くなるときは家にきちんと連絡しておけだの、少々口うるさいくらいだ。
それは八束の事を信用していないとかそういうことではなく、ただ家族に心配かけるな、という意味だというのはわかっている。
でも声を聴きたい、会いたいというのは今の正直な気持ちだったので、八束は彼の珍しい言葉に甘える事にした。
晩御飯に付き合ってもらうだけ、と言っていたから、そんなに遅くなることもないだろうし、長畑もそうするつもりはないはずだ。
いろいろな事があって、疲れていたはずの今日。
声を聴いただけでそんなものは吹き飛んで、今はわくわくした気持ちしかない。

──気持ち悪い?

ふと、今日霧島が自分に言った言葉を思い出した。
八束を「好きかも」と思ったかもしれないという霧島は、そんな自身を「気持ち悪いと思うか?」と問った。
自分が長畑にそう伝えたときは、「好き」という気持ちばっかりで周りが見えなくなっていたので、あまりそう考える余裕もなかった。
考えないようにしていた、というのが事実だろう。
「好きかも」レベルの感情であったが、霧島から一瞬、それを向けられて八束は戸惑った。
(おんなじように、長畑さんも戸惑ったのかな)
年下もいいところの自分なんかに、突然「好き」なんて言われたりして。
自分は友人にそう言われて戸惑いはしたが、「気持ち悪い」とまでは思わなかった。
自分が同じような経験をしていて、そう認めたくなかったからだろう。
──あの人は?
そう考えて、八束は頭を軽く振った。
(駄目だ、またどつぼにはまっている……)
いろいろぐだぐだ考えたところで、自分は己の気持ちに正直な道しか選べていない。
好きだと言ってくれて嬉しい。誘ってくれて嬉しい。だから行く。
それだけの単純な気持ちで長畑と向かい合えばいいじゃないか、と八束は思った。
どうせあれこれ聞いたところで、あまり本心を語ってくれないのが長畑なので、自分はたまにぽろっと出てくる彼の正直な気持ちと言うのを聞き逃さなければいいのだ。
彼の「好き」を、自分は信じていればいい。
それだけなのに、周囲のざわめく感情に影響されて不安になるなんて、情けないと思った。


15分ほどで、バスは駅近くに着いた。
辺りはすっかり暗いが、学生や会社帰りの人間たちで人通りはそこそこある。
(で、あの人はどこにいるんだ?)
バスから降りたった八束は、周囲を見渡す。
バス停の辺にいるよ、と言っていたが、姿が見えない。
(あの人目立つから、すぐわかると思ったんだけど……)
でかいし、と思いながら周辺を歩いていると、本屋にそれらしき姿が見えた。
「長畑さん」
近寄って声をかけると、本棚を見上げていた男ははじめてこちらに気づいたように振り返った。
「あぁ、ごめん気付かなくて。早かったね」
まだ30分経ってないよ、と腕時計を見ながら、長畑が笑った。
「めちゃめちゃ急いで出てきました」
「そんなに急がなくても大丈夫だったのに」
そう言う長畑の姿はいつもの作業着ではなく、ジーンズとTシャツにカーディガン、という楽そうな恰好だった。
「珍しいですね、こんな時間に外にいるとか」
「今日ちょっとあちこち行っててね。疲れたから、家でご飯作るの面倒で」
「って言っても、あまり家じゃ食べてないでしょう?」
「食べるよ……まぁ、茶色い感じの料理だけど」
この男は誰かいたらきちんと料理できるのだが、一人だと食生活はひどい。
前に冷蔵庫を開けたら、納豆と卵しか入っていなかった。食べたり食べなかったりも激しいので、よく三崎に怒られていたりする。
「長畑さんは何食べたいんですか?」
「君は希望ないの?」
「俺はもう軽く食ってるからいいんですよ。長畑さんの希望で」
「うーんじゃあ……」
しばらく長畑は考えていた。
「ラーメン」
「……了解です」
一応初デートなんだけどねこれ、と思いながら、それも気楽で良いのではと八束は思う。
あまり凝ったところに行ったところで、自分達らしくもない。


この男は気取ったところがない。
ラーメン屋とか牛丼屋とかの雰囲気が落ち着くのだ、と言っていた。
顔に似合わず、と言うと悪いが、案外庶民的な感覚で生きている人間なのだな、と八束は思う。
黙々とラーメンを食べた後、混んできたのでさっさと店を出て、なんとなく夜の街をぶらぶらと歩く。
「少しは元気出た?」
「え?」
長畑の突然の言葉に、八束は驚いて彼を見上げた。
「電話してきたでしょ? 珍しいと思ったし、ちょっと元気がなかったから、心配してた」
「……」
あぁ、と八束は納得した。
彼がこんな夜に、自分を誘ってくれた理由をだ。
「僕も最近慌ただしくて、あまり君の話を聞いてあげられてなかったし。言い訳になっちゃうけどね。何か、不安に思ってる事があるのかな、とか」
「不安……」
何かと言われても、複合的なものが絡まり合ってそうなってしまっていて、八束としてもなんと言っていいのかわからない。
「逆に」
八束は自分の靴のつま先を眺めながら言う。
「長畑さんは俺といて、不安になったりしないですか?」
「君と?」
「……俺と」
八束は隣を歩く男の顔を見上げた。長畑は少し困ったように、苦笑いを浮かべた。
「……不安ね。いつ捨てられるのかと思って、びくびくはしてるよ」
「捨てないですよ!」
強い口調で、八束は反論した。真顔の反論を、長畑は柔らかい笑顔で受け止める。
「冗談だよ。でもそれは君も、僕といて不安って事?」
「それは……」
八束は一瞬とまどった。そうじゃない。そういうわけじゃない。
「長畑さんに対して不安があるわけじゃないですよ。不満もありません。ただ、誰かに取られたくないだけです」
そう言えば、長畑があはは、と笑った。
「……いや、わりと本気で」
「うん。でもそれは僕も思うな。君が誰かに取られたら嫌だし。……絶対に嫌」
語尾の強さに、八束は思わずびくりとして隣の男を見上げた。
長畑も静かにこちらを見た。
彼の色素の薄い瞳は、時折八束にさえ感情が読めなくなるような冷たい色を見せる。普段は穏やかな男なのだが、こういうときの長畑は怖い。
ただ、そういう冷たいものを極力八束にぶつけないように自制している、というのもわかるのだ。
そういうものが彼の奥底にあるのを、八束だってわかっている。
わかっていて、隣にいる。
(──俺は、この人のこういう一面も受け止めなくちゃいけないんだ)
彼の孤独もプライドも恐ろしさも、受け止められるようにならなければ、隣にいる資格などない。
自分の腕にも体にも、見えない彼の棘はしっかり食い込んでいる。もう無傷で逃れる事などできない。
だが自分は、その棘だらけの花の中に、望んで飛び込んだのだ。
棘を抜いてほしくないのは、自分の方だ。
そんな事を考えながら長畑を見上げていると、ふっと彼の瞳から冷たさが消えた。
無言で見上げる八束の姿を見て、空気を変えるように笑みをつくる。
「……少し変な話になったね。僕は嫉妬深いし、不安が全くないってのは嘘になるかな。でも、君が待っててって言ったから、待ってる。絶対に裏切らないって言ってくれたから、それを信じる事にしている」
「……長畑さん」
「早く来てよ? 僕はずっと、待ってるんだから」
長畑は穏やかな笑みで、八束を見下ろした。
(──俺が)
自分が、「釣り合うような大人になるから」と言った言葉を、この男はまだ大事に持っていてくれているのだ。
何を悩んでいたのだ、と思った。
自分の問題は自分の問題。
周囲の感情がどうであれ、何を言われようが、自分たちに壊れる様な何かがあっただろうか?
この男はきちんと自分を見てくれて、あのときの言葉をきちんと信じて、待っていてくれているのに。
他人の感情に振り回されてあれこれ悩んでいた自分が、恥ずかしくなってきた。
こんな状態の自分こそ、この男にふさわしくないんじゃないか。
「……そうでした。自分が言ったくせに……すみません、勝手に悩んで」
「仕方ないよ、君だって若いんだし。僕だってそうだった。今は歳とって、図太くなっただけ。悩んでた理由は、言いたくないなら聞かないけど」
元気出して、と長畑が笑う。
八束が頷いた、そのときだった。
携帯のバイブ音が響く。
──八束のものではない。
「あ、ごめん。ちょっと電話……公衆電話? 誰だろ」
ちょっとごめんね、と八束に断って、少し離れたところで長畑は電話に出た。
電話に出る長畑の姿を見ながら、八束は少し自分の気持ちが落ち着いたのを感じていた。
へたれなので、霧島兄が長畑に好意を寄せる瞬間を見れば、多少ぐらつくものはあるかもしれない。
だが自分たちには関係ない。長畑もきちんと自分を持っているし、自分だってそうだ。自分が不安を感じて、揺らぐ必要は全くない。
普通じゃなかろうが、これが自分たちなのだ。
何か言われたって仕方ない。もともと、普通じゃないのだから。
そう考えて納得していたときだった。
「……だからさ、毎回毎回言わせないでよ。来るなら来るって連絡しろって言ってるじゃないか!」
突然聞こえた長畑の荒っぽい声に、八束は驚いた。
「え? 今駅。ちょうどいいじゃないよ、こっちだって連れがいるんだから……え? あの子だけど?」
電話しながら、長畑が凄まじく機嫌の悪い声でこちらを振り向いた。
八束は、口調と表情で察した。
長畑が、誰と話しているのか。
(次は夏って言ってなかったけ……?)
まぁ、サプライズとか言って連絡なしに来る男なので、こういう事もあるのかもしれない。
「……うるさい、ちょっと待って。八束、君に変わってって」
「え、俺ですか?」
八束は言われるがままに携帯を受け取った。
「もしも……」
『八束君ハロー!誰だかわかるー?』
いきなりテンション高い声で叫ばれて、右耳が死ぬかと思った。
「お、お久しぶりですグラハムさん……わかりますよ」
なんでこんなときにかけてくるんだ、と八束は思う。今じゃなくたっていいだろうに。
「夏に休暇取ってくるとか言ってませんでしたっけ?」
『うん。夏も行きたいけど、今お友達の結婚式にお呼ばれして来てたんだよー。仕事持参で日本来たよ。で、新幹線乗って、今駅着いたんだけど。永智に迎え来てって言ったらすっごい機嫌悪い。もしかしてデート中? だった?』
「まぁそうなんですけど……グラハムさん、もしかしてちょっとお酒入ってる?」
けらけら笑っているテンションが、完全に飲んだ時のそれである。
『あー、控え目には。だから迎え来てって言ったんだけど、すごい怒られた』
「……」
八束はどういった顔をしていいのかわからず、長畑を見た。
さすがにコレを放置するわけにもいくまい。
「……身内がすみません」
何故か謝りながら、長畑は八束の手から携帯を受け取る。
「もしもし? 行くから、ちゃんと駅にいてよ? ふらふらしないでよ!」
そう言う彼らの会話は、途中から早口の英語に変わっていた。
最後、何か長畑が悪態をついたのは、英語が苦手な八束でもわかった。
──怖い。
「ごめん、ちょっと迎えに行ってくる」
電話を切った長畑は、ため息をつきながら言った。
「俺も行きますよ」
「ほんとごめん、後でタクシーで送るからね」
申し訳なさそうに言う長畑に、八束は苦笑いで応えた。
初デートというものは、約1時間で終了してしまった。