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バラ園と新たなる季節

09 緑の瞳の悪魔


星の綺麗な夜だった。 男がいるという場所は、すぐそばにある駅の新幹線側だと言う。
どこにいるのだろう、と周囲をきょろきょろ見渡していた八束は、前方でスーツケースに腰かけた、それらしき男を発見した。
あの男だというのは遠目にもわかったのだが、肩を落としてしょんぼりしている様子、というのもなんとなくわかった。
今日もこの男はスーツ姿だが、着ているのは礼服だ。友人の結婚式だった、というのは本当らしい。
「あの、お久しぶりです。……大丈夫ですか?」
八束は近寄って、顔を覗き込むように声をかけてみた。 疲れた様子の緑の瞳が、こちらを見る。
「……八束君。君一人?」
先ほどとはうって変って、グラハムの声はテンションが低く、暗い。
確かに、今ここにいるのは自分一人だ。長畑は「ちょっと先行ってて」と言って、どこかへ消えた。
「いや、長畑さんも──」
来てるはずなんですけど、言いかけた瞬間、いきなりグラハムが抱きついてきた。
予想していなかった八束の口からは「ぎゃっ」という情けない悲鳴が漏れる。
「抱きつく」と言うよりは「捕獲」に近い。
「ちょっと、なんなんですか!」
「私、またやらかしたかもしれない予感がもりもりするんですけど……」
「って言うか、痛い!」
「……確かに連絡忘れたのは悪かったさ。でも、あんなに怒る事ないじゃない……」
ぶつぶつと、かなり落ち込んだ様子の言葉が呟かれる。
こちらの悲鳴はあっさり無視された。
人の話を聞かないのはいつもの事なのだが、こんなに落ち込んだ男を見るのはずいぶん久しぶりな気がする。
「あー……珍しく英語でなんか言ってましたね、長畑さん」
早口過ぎて、八束にはよく聞き取れなかったのだが、あまり穏やかな様子ではなかった、というのはわかった。
「あの子があんまり怒るから、私もちょっとヒートアップしちゃってさ……いや、まぁ私が悪いんだけど、でもあそこまで言う事ないじゃない。英語で喧嘩すると罵倒三割増しで返ってくるから嫌なんだよ……。また何年も口聞いてくれないとかもう勘弁だよ。そんな事になったら今度こそ身が持たない……」
はあぁ、とグラハムが大きなため息をついた。
何を言い合ったのかは知らない。知りたいような、聞かない方がいいような。聞き取れなくて良かった、というべきか。
「いや、でも長畑さんそんなに怒ってなかったですよ?」
八束はここに来る前の事を思い出す。
「いーや、あれはかなりキてた。そりゃ君らのデート邪魔したのは悪かったけどー」
「それは多分、あまり関係ないんじゃないかと」
「悲しい事に」と付け加え、八束は苦笑いを浮かべる。
彼がイラついていた原因は、そこではない。
グラハムは毎回連絡もなくふらっと来るので、神経質な一面のある長畑にとって「泊める準備ができていない」というのがすごく嫌らしいのだ。彼自身の予定との折り合いもある。グラハムは気を遣ってくれなくても平気と思っているのだろうが、そこは人間性の違いだ。
だが今自分にへばりつくこの男に何を言っても、無駄のような気がする。
(それにしても、俺コレどうすればいいんだよ……)
場所は駅の新幹線側出口。
行き交う、周囲の人々の視線が痛い。
あの人はどこ行ったんだ、と八束が考えていたときだった。
「言っとくけど、僕だって毎度怒りたくて怒ってたわけじゃないんだからね」
突然、長畑の声が頭上から降ってきた。
いつの間に来たのか、八束の背後に立っている。
八束をがっしり捕獲したまま、グラハムが視線を頭上に向いた。
「……君、帰ったんじゃなかったの?」
「なんで。迎えに行くって言ったじゃない。……遠いところご苦労様」
そういうと、長畑はホットの缶コーヒーをグラハムに差し出した。
ここに来る道中「……ちょっと言い過ぎた」と、この男も反省したように呟いたのを、八束も見ていた。
そう思う余裕はあったようなので、今回はそこまで怒ってはいないなと思ったわけだ。 八束を先に行かせていたのは、頭を冷やすのとこれを買ってくる為だったらしい。
八束を捕獲したまま、片手でグラハムはコーヒーを受け取る。
長畑なりの、「言い過ぎたしごめんね」の意味なのだろうが、分かりづらいし回りくどい。
目の前の英国人相手にそれが通じるのか、八束は少々ひやひやしながら見ていたのだが、グラハムはにんまりと口の端を上げて笑った。
「君の愛は尖りすぎなんだよねぇ」
しみじみと、呟く。
「尖ってて悪かったよ」
「いーや。そういうところも含めて愛おしいわ」
その後もぼろぼろ出てくる情熱的な言葉に、はぁ、と長畑が頭を抱えた。
「……いいからその子もう離してあげてよ。困ってるから」
「もうちょっと貸してよー。私だってこの子との再会喜びたいものー」
久しぶりだもんねー? と八束に言いながら、グラハムはぎゅーっとこちらを抱きしめる。
多少酔っぱらっているこの男は、力の加減があやしい。
そして、言うほど久しぶりでもない。
(長畑さん、困ってるんじゃなくて死にそうになってます……!)
「ちょ、いい加減やばい」とグラハムの腕を叩くのだが、全く離してくれる様子がない。上機嫌の彼の力はますます強くなる。これは、彼が飽きるまで解放は無理だろう。
しかしひとまず、仲直り成立らしい。
(この人らの関係って、やっぱりよくわからないなぁ……)
どこか遠のきかけた意識で、八束は思う。
喧嘩なのかとこちらが心配するようなことも、彼らにとってはスキンシップなのかもしれない。
八束にとってはどちらも好きな人間なので、本気の喧嘩なんてやはり見たくない。
平和が一番。
好きな人も微笑んでいるのが一番だ、とぼんやりした頭でわけのわからない事を考えていたりした。


「なんかお前、すげー疲れてる?」
次の日、学校の教室で昼休みに机に突っ伏し、ぐったり寝ていた八束の頭を、佐々木がつついて起こす。
寝ていたことに気付かなかった八束は、頭を押さえて呻きながら身体を起こした。
「いや、まぁその……昨日ちょっと夜にいろいろあってね……」
「ほう、デートか。さすがリア充」
「だからそんなんじゃないって……」
確かにデートだったのかもしれないが、途中で別の何かに変貌した。
考えたら一緒にラーメン食べただけである。あれはデートだったのだろうか?
いやでも長畑が冗談でも「デートしようか」なんて誘ってくれたのだから、多分そう思ってよいのだろう。
もうよくわからない。あれからタクシーで送ってもらい、家に着くと倒れるように寝てしまっていた。
「……あげる」
そのとき、頭上から別の声が降ってくる。
ん、と思う前に机の上にに缶ジュースが置かれた。白い綺麗な指に視線を上げると、霧島が立っている。
霧島は今日、昼は八束たちのもとへやってきた。
少々気まずそうではあったが、「……昼、一緒に食ってもいいか」と言う霧島を見て、佐々木も嬉しそうだった。
「フォローするから」とは言ったが、そんな必要もなかったな、と八束は思う。
置かれたジュースは、ビタミン入りの炭酸飲料だった。疲れている様子の自分を気遣って、わざわざ学校の自販機で買って来てくれたらしい。
「……ありがと」
そう答えれば、霧島は少し微笑んだ。
優しい、整った顔立ちだと思った。きっと影が薄くて、みんな気づいていないだけなのだ。
目立つ佐々木といれば絶対にこいつもモテるんだろうな、と思う。
霧島は、八束の隣の空いている席に腰かけた。
せっかく貰ったし、と缶を開けながら前の席を陣取る佐々木を見れば、彼は何か紙をひらひらさせながら眺めている。
「何見てんの?」
佐々木はこちらをちらりと見て答える。
「アレだ、朝貰ったやつ。進路希望調査表?」
「あー」
そういえば貰った、と八束は思い出した。書いて提出しなければと思いつつ、机の中に入れたままにしている。
「……そういえば、佐々木は進路決めてるの?」
霧島のどこか遠慮気味な問いに、佐々木は「うーん、まぁ一応」と少し考えるように答えた。
「美容師になるって言ってなかったっけ、お前」
佐々木の家は父親が経営する美容院だ。佐々木自身も昔から雑用で手伝いをしている事はあるらしい。
彼は手先も器用で、八束の髪もただで切ってくれる、有難い存在である。
「そうなんだが、俺の計画にちょっと迷いが生まれていてな」
「迷い?」
「そう。俺には都心の専門学校出て有名店に就職・海外でも働いて地元に帰り、うちの美容院を派手に盛り立てるという壮大な計画があったわけだが」
「……壮大?」
霧島が疑問を浮かべた顔で八束の方を見た。「やけにでっかい話だが、とりあえず頷いておこうか」と八束は霧島に視線を送る。
「現在、親父の反対にあってましてね。ちゃらちゃらした専門とか行くくらいなら店紹介してやるから、働いて免許取ってこいと」
「あー……まぁ専門とか高いしね。どっちがいいのかは俺わかんないけど」
八束は頬杖をついて、佐々木の父の顔を思い浮かべた。
優しく良い人ではあるのだが、職人気質なところがあるので、そういった意見になったのかもしれない。
「でもこういう業界って、都会出なきゃ駄目だと俺は思うし。それに、どうせなら都会で一人暮らしとかやりたいし」
「……そっちの野望もあるわけね」
ふーん、と相槌をうちながら、八束は思う。
都会に出たい、という野望は置いておくとしても、佐々木の「美容師」という夢は、昔から変わっていない。
中学の卒業文集にも「将来は美容師になって、うちの店をでっかくする」とか書いていた。
華やかで昔から目立つ男だが、昔からその一点はぶれていない。
ふと自分は何を書いただろうと考えた。
思い出せない辺り、面白い事は何も書いていなかったのだろう。今更読み返すのも絶対に嫌だ。
「霧島はどうすんの? 大学とか行くのか?」
佐々木が霧島に話を振った。
霧島も少し考えるように、かるく唸る。
「……家族は大学出ておけって言うんだけどね。俺は兄貴みたいに議員向きじゃないし、なろうとも思ってないし。でも目的なく行くには、俺そこまで学校って好きじゃないし……全然決めてない」
「でもお前、昔っから頭良かったよな。入ろうと思えばどこでも行けそうなのに」
「でも、4年は長いよ」
霧島は苦笑する。
「八束は?」
「うーん……」
この流れだと、当然自分も聞かれるよなぁ、と八束は思った。
「お前就職って言ってなかった?」
佐々木の言葉に「そうなんだけどねぇ」と渋い声で答える。
「それしかないなぁとは思ってるんだけど。うち、進学する余裕もないしね。でも何て言うか……ただ稼ぐ為の就職ってのもどうかと考えはじめたわけで。これが好きとかやりたいとか、そいういうのも全然ないからさ」
見て考えられるほど、この学校に求人がないというのも事実だ。
昔はこんな事、悩んでいなかった。
給料が良ければ、多少条件が厳しくとも仕方ないと思っていたし、家計の状況的に早く自分は独立せねばならないし、妹が将来的に学費がかかるっていうのなら、なんとかしてやりたい。
……そんなふうに考えていて、あまり自分の事を考えていなかったツケが回ってきている。
八束のそんな「稼げればいいじゃない主義」が多少変わってきたのは、昨年ごろから学校外でいろんな人間に出会うようになったからだ。
いろんな大人に影響を受けている。そして自分もそうなりたいと思っている。
思っているのだが、気ばかり焦って月日は過ぎ、いつの間にかリアルに選択していかねばならない時期を迎えようとしていた。
──答えが出ない。気が重い。
「どうしよっかねぇ」
佐々木は進路希望表をひらひらさせて考えている。
霧島兄は「十代ですべて決めなくても」的な事を言って自分を慰めてくれたが、決められなくても紙は提出しなければならない。
それが現実なんだよなぁ、と八束は思った。


午後の授業が終わり、友人たちと別れた八束は長畑のところにやって来ていた。
「八束君、いらっしゃい。昨日はどうもー」
室内に入るなり、台所のテーブルでノートパソコンをいじるグラハムが声をかけてくる。
今回は仕事を抱えてきている、と言っていたのでそれなのだろうが、こちらをじっと見る瞳は妙な機嫌の悪さを含んでいた。
微妙に、居心地が悪い。
「……あの。なんですか?」
俺何かしたか? と思いながら、問う。昨日はどちらかと言えば、こちらが被害者だ。一応考えてみたが、自分が何かやらかした記憶というのはない。
「アレ、さ。君何か知ってる?」
頬杖をついたグラハムが八束の後ろを指差した。振り向くと、そこは部屋続きの居間。
そしてそのテーブルの上に、見慣れぬものがあるのに気付く。
真っ赤なバラの、大きな花束。
近寄って見てみると、むせ返るような強香が漂ってくる。
「……バラですか?」
「バラですね。見りゃわかるけど」
「どうしたんですかこれ?」
「私が聞きたいくらいだわ。今、永智が貰って帰ってきたんだけど……」
そうグラハムが呟いたとき、長畑が家の奥から顔を見せた。
「……やっぱりうち花瓶ないなぁ。あ、いらっしゃい」
長畑は八束の顔を見るとにこりと笑顔を見せる。が、八束の視線は彼の右手に向いた。
何か持っている。
水色の、ポリバケツ。
「君、悪いけどこれにそのバラ生けておいて。うち花瓶なかった」
「いいですけど、なんかあったんですか? すごい高そうな……」
「あぁ、それね、霧島さんに貰った」
「……はい?」
八束の思考がちょっと止まる。
「霧島さんって……あの、お兄さんのほう? メガネの」
「そう、お兄さんのほう。君も聞いてたよね? バラ探してくれって頼まれてた件」
それは聞いている。自分も、あの席には同席していた。
「今日ちょっと様子見で、あちらにお邪魔してたんだけど、そのときに」
「へぇ……世の中にはお邪魔したら真っ赤なバラの花束くれるお客様がいるのねぇー」
グラハムが頬杖をついたまま言う。完全に棒読みの日本語だった。
「別に変な意味じゃないよ……僕も戸惑ったけど。本当は別の人へ贈る予定で用意してたらしいんだけど、先方に不幸があったみたい。もったいないから貰ってくれって言われて、断れなくて。高いバラなのにね。たぶん店で買ったら一本何百円もする……」
花束は、その一本何百円のバラが数十本束ねられている。
「万単位だし、お返し何か考えないと」と長畑は少し渋い顔をしながら呟いた。
「とりあえず、僕は出てこなきゃいけないから、あとよろしく。たぶん夕方には帰る」
「はい、いってらっしゃい……」
グラハムと二人、慌ただしく出ていく長畑の姿を見送る。
「……で、どうよ八束君。お気持ちとして一言」
長畑の姿が見えなくなってから、コメンテーターのような口調で、グラハムが問う。
「え……いや、仕方ないんじゃないかなって」
八束の言葉に、グラハムがバン! とテーブルを叩いた。
「君はアホですか? うん万する花束なんて好意がなきゃ渡さないよ!」
「だ、だって疑えっていうんですか?」
──相手は議員秘書。花束を注文している姿は以前見た。
付き合いというのは、業界も職種も幅広いのだろう。そういうなかで、花束注文。だが送る直前に相手方に不幸。真っ赤な花束なんて渡せない。そこへたまたま来ていた庭師。相手はバラ好き。
だから渡す。
そこまでシミュレーションしてみたが、流れとしてはおかしくない……と思う。
「君、相手知ってるの?」
「知ってますよ。同級生のお兄さん。議員の卵です。良い人なんですけど、ちょっと押しが強くて」
「ふーん……で、どうなの?そっちの可能性は」
そっち。
あの人に好意があるのか? という事だろう。
八束は唸る。
「……まだ本人の口から聞いてないし、何とも言えません。でも俺は……そうかも、って」
「捨てなさい。今すぐ燃やしなさいそんな情念こもってそうな花は。何なら私が燃やす」
「だーめですって! 花に罪はないし貰い物にそんな事したら、あの人激怒します!」
花束をかばうように、八束は立つ。
「それに、そのうん万の花束をスーパーの菊みたくポリバケツに突っ込もうとしてたあの人ですよ? 相手に特殊な感情あるわけないし!」
「そりゃそうだわ。あの子花飾る趣味ないもん」
「あ、そうなんですか?」
「あの子、花は育てたりするの限定。面倒見て咲かせるのは好きなんだろうね。でもその花切って飾る、ってのはあまりやらない。見たことないでしょ? 実際、花瓶すらない」
そういえばそうだ、と八束は両手で持ったバケツを見下ろした。
自分の趣味の庭と、品種の育種と苗木の生産。彼がやってるのはそれだけで、飾るというのはあまり見たことがなかったかもしれない。
少々複雑な気持ちで台所のシンクの蛇口をひねり、バケツに水をためる。
(こんなの、受け取らなきゃいいのに)
そう、少しイライラを感じる。
しかし自分がその場にいても、霧島兄から「持って帰れ」と何かを渡されたら、断れる自信もないなと思う。
押しの強さは体験済みだ。
(……客先だもんな。いらね、とも言えないよなぁ)
仕方ない、と八束は自分に言い聞かせる。
仕方ない、これは仕方ない。事故だ、これは。
だがグラハムは、相変わらず半眼でこちらを見ている。
気に入らないらしい。
その花束も、自分の態度も。
「でもさ、今時珍しいんじゃない? 渡した理由は建前で、あの子に渡したくて準備してたんだとしてもさぁ。こってこてだけど、情熱的。君、できる? こんなこと」
「……そりゃ俺には無理ですね」
「だろうねぇ。知ってる? 真っ赤なバラって、プロポーズとかに渡すの」
「……知ってますよ! 知ってますけど俺はやりませんからねそんな恥ずかしい事! っていうかあの人がもしそんな意図で渡してたんだとしたらいろいろすっ飛ばし過ぎなんですよ! 舐めてんのかって思いますよ!」
「あ、八束君がキレた」
振り返って叫び散らした自分を、グラハムは面白そうに眺めている。
にやにやこちらを見ているので腹立たしいが、一人でブチ切れているのも馬鹿みたいだと思い、少し冷静になれた。
「……とにかく、相手が何も言ってこない以上は俺も動きません。思い込みで空回りとか絶対に嫌です。長畑さんもどう思ってるのかわからないですし」
軽く水を入れたポリバケツを床に置く。
花束を生けようと、近寄って花束を持ち上げたときだった。
はらり、と何かが落ちる。
花束の包み紙の間に差し込んであったらしい。贈呈用のカードか何かだと思ったのだが、拾いかけた八束は気づいて手を止めた。
真っ白な封筒だ。
差出人は書いていない。宛名もない。封もしていない。だが中には、何か手紙が入っているような。
グラハムもそれに気付いたらしい。ダイニングテーブルに腰かけたまま、くすくすと笑いだす。
「……私、退屈しないときに来たわぁ」
「俺は平和で穏やかな日々を送りたいんですけどね……」
八束がそれを拾う為にしゃがむと、禍々しい視線を肌で感じた。グラハムが頭上からにっこりとこちらを見ていた。
「八束君。……それ開けてみて」
ちょい、と彼の人差し指が動く。
「だ、だめですよ、人の手紙……」
「宛名書いてない。差出人もない。誰宛なのかはわからない。これは事故です」
──誰宛なのか、内容を確認するために、ね?
そう言うと、グラハムは深い緑の瞳を細め、非常に楽しそうに笑った。
(この人悪魔だ……!)
笑顔なのだが、その笑顔の背後で「私の目の前であの子にこんな事するとはいい度胸」と言っているのが透けて見えている。
「それに大体、他人に読ませたくないなら、封筒のりづけしとけばいいだけの話。私たちは悪くない。君だって、中身気になってるくせに」
「……」
八束はぐっとつばを飲み込んだ。
確かに、気にはなっている。もしこれが霧島兄から長畑へ向けての何かだとしたら?
だがそんなものを、勝手に自分が見てよいものかどうか。
グラハムは体をこちらに向けて、足を組む。
「さて、八束君」
グラハムはこの日最上級の笑みを、八束に向けた。
「いっちょいってみましょうか」