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薔薇色の道

10 後悔と抱き枕


言わなければ良かった、というその言葉。
薄暗い闇の中で呟かれたそれは、ため息と、苦味のようなものを含んでいた。
「……何を」
そばで、長畑に張り付くようにしてその話を聞きながら。八束は言葉を選びつつ、慎重に問う。
今まで彼が、そんな事を八束に話してくれたことはなかった。
渋る長畑に「話して」と言ったのは自分だったが、いざ告白されると、一気にどうしていいのかわからなくなってしまう。
それが無責任で、ひどく情けない。
「何を、言ったんですか?」
控え目に問えば、長畑が苦笑する気配が伝わってきた。
「子供のわがままだよ。たまには早く帰ってきて、とか。そんな事を言ったのかな。確か」
「それ、わがままですか……?」
八束にはそれが、そんな重い後悔に繋がる言葉だとは、とても思えなかった。
長畑は当時、いくつだったのだろう?
はっきりと聞いたわけではないが、今までの話から推測するに、きっと今の八束よりも相当幼い頃の話のはずだ。 両親の仕事は忙しく、息子であった彼は、それを理解していた賢い子供だった。
だが、子供はいくら賢くても子供なのだ。
なかなか家族と過ごす時間がない事を「寂しい」と思う事は当たり前の事で、罪ではない。
それを両親にぶつけたところで、責められなければならないものでもないだろう。
八束はそう思った。
まだ八束自身が「子供」の目線から物事を考えるからかもしれない。
高校生になった今は、さすがにそんな事を考える事はないし、言うつもりもない。
だが、まだ小学生の妹などは「どこかへ連れてけ」だとか「あれが欲しい」だとか、そんな事を母親にぶつけるのが日常茶飯事だ。
小学生の女の子なんて、どこの家庭も同じようなものだと思っている。
「子供なんて、そんなもんです」
自分も決して大人ではないが、と思いつつ、八束は言った。
「……かもね。でも僕にとってはそれを言うのは、とても勇気がいる事だったんだよ」
八束の疑問に、長畑そう笑って答えた。
己の感情を押し隠そうとするのは、何かきっかけがあったわけでもなく、昔からの気質だったらしい。
「でも今まで平気だって言ってた僕が、いきなりそんな事言ったものだから、二人ともびっくりしてね。なにかあったのかって言われたけど、別に何もないんだよ。それまでの積み重ねで、ただ単に自分がきつくなってきただけだから。クラスメイトにいじめられたわけでもない。環境には馴染めていなかったけど、それだけ」
「それだけ、じゃないですよ。立派な理由じゃないですか。俺だっていきなり言葉も知らない外国へ住めって言われたら、鬱になる自信があります」
「そう? 君は結構どこでもやってけそうだけどね。今のところ、楽しんでくれてるみたいだし」
「それは、長畑さんもいるしグラハムさんもいるし、サーシャさんも喋ってくれるからですよ。一人だったら路頭に迷ってます。多分、買い物もできません」
八束が強く言い切ると、長畑は「そうかなぁ」と呑気に笑った。
「大体、あなたは自分に厳しすぎると思う」
「そんなことないけど」
「いや、厳しすぎです。もうちょっと、楽に生きればいいのにって、思う時がある」
八束がそう言い放つと、長畑が八束の方へ身体を傾けるようにして、こちらを見た。
一瞬どきりとしたが、彼の表情は穏やかなままだった。
「だって、誰かに甘えたところで、それは一瞬だよ。辛くなって誰かを頼っても、環境は変わらないんだから。結局、自分がどうにかするしかない。厳しいのかどうかはわからないよ。人生そんなものだと思ってるから」
「……」
目と鼻の先で、長畑の瞳が八束を映している。
吐息がかかるほどの距離。
八束は手のひらに、じっとりと汗がにじんでくるのを感じた。
こんな近くで話をしているこの状況に興奮しているのか、珍しく語られる長畑の暗部に戸惑っているのか、それがよくわからない。ごまかすように、シーツを硬く握りしめる。
(……自分がどうにか、するしか)
言葉のとおり、長畑は己の手で人生を掴んできた男だ。
人生経験では天と地の差がある。そんな男に甘やかされてぬるま湯につかる自分が、この男に何も言えるわけがない。
(確かに、この人の言う通りなんだけど)
自分を変えたければ、己が努力をするしかない。誰かに頼っても変わらない。
この男と出会って、一年以上経過している。
どうしようもなく好きになって、好きだと伝えた。釣り合う様な人間になるのだ、と思った。彼にもそう伝えた。だが、今のところ何も進歩していない気がする。
──将来の目標も見つけられないままなのは、自分の努力が足りないから。
日々の事に忙殺されて、それを探そうとしていないから。
長畑に「お前が怠けていたからだ」と言われば、八束は納得しただろう、と思う。
だが自分よりもずっと幼い人間が、そんな風に自身を追い込む姿というのは、想像すると、何故かとても痛々しいもののように感じた。
立派な、大人から見れば「できた子供」「手のかからない子供」なのかもしれないが、素直にそう思う事ができない。
サーシャの言っていた、子供の頃の長畑を「可愛げがない」と評した人間たちは、きっと今のような思いを感じていたのだろう。聞いたときは反発したが、今は納得してしまった。納得してしまった自分が、嫌だった。
何も言えなくて黙り込んでいると、シーツを握る指先に、長畑の手が触れた。
そのまま大きな手のひらで、拳を包まれる。
「……」
長畑が何を考えているのかよくわからなかったが、したいようにさせた。
もしかすると、意見の違いで落ち込ませた、などと考えているのかもしれない。
(俺はそこまでやわじゃない)
八束は内心そう呟きながら、笑みを浮かべて、目の前の男の顔を見つめた。
特別頭も良くないし、察しが良いわけでもない。
それでもこの男が好きだと言う気持ちだけは、誰にも負けない。
この男の全てを受け入れる事ができるような、大きな男になるのだ、と誓ったのだ。
この男の重みに、押しつぶされている暇はない。
「……それで?」
ゆっくり、促すように問う。 八束の指先を弄びながら、長畑は目を細めた。
「……二人とも、これからはできる限り早く帰るようにするから、って言ってくれた。いい人たちだったからね。彼らだって、息子を放置して平気なわけではなかったんだよ。だから言いたくなかった。でも言ってしまった。彼らが出かけた後、すごく後悔してしまってね。……もう絶対言わない、帰ってきたら謝ろうって思った」
長畑の言葉からは、両親に対する深い愛情のようなものを感じた。
彼は両親を愛していて、彼の両親もまた、彼を愛していたのだろう。常に傍にいるような関係ではなかったが、疑いようのない絆があったのだ。そう思うと、微笑ましいものすら感じた。
彼は本来、とても愛情深い人間なのだ。
大事にされているから、それがわかる。
「でもね、彼らと話したのは、それが最後になってしまった」
「え……」
八束は首を動かして、長畑の顔を見つめる。八束の戸惑った視線に対し、長畑は苦笑を浮かべていた。
「人生、そんなものなんだよね。こんな思いをしているのは、僕だけじゃないと思うよ。みんな何かしら、後悔はあると思う。でも、やっぱりいろいろ考えた。僕があんな事言ったせいで、彼らの気を散らしたんじゃないかとか。それが事故に繋がったんじゃないかとか。あんな事言わなければ、違ったのかな、とか」
言葉の内容に対して口調が軽かったのは、それだけ年月が経過しているからだろう。
それはもう、遠い過去の出来事。その出来事に足を掴まれ、身動きができない時期は過ぎている。
「もう昔の事なのに、いざ帰るってなったら、それを強く思い出してしまった。帰ってきたら、やっぱり距離が近いせいなのかな。情けなく落ち込んでしまったよ。それだけ。もう、どうにもならない事なのにね」
「……」
言い聞かされるように言われて、返す言葉も見つからず、ただただ心臓が痛くなるのを感じて、八束はシーツに視線を落とした。
「グラハムさんは知ってるんですか? それ……」
「子供の頃に一度、言ったね。一人で隠し持っておくのはしんどかったから。でも、二度とそんな事言うなと叱られた。気に病む必要はないって、言ってはくれたけど、やっぱり無理だね。そこまで僕は強くない」
「……」
「ごめんね。湿っぽいし、情けない事でしょう? だから言いたくなかった。君が、落ち込む必要はないからね」
八束は、無言で首を横に振った。首を縦に振ればいいのか横に振ればいいのか、よくわからなくなった。
この男が少し元気がなく見えたのは、そんな昔の出来事を、この地に来てリアルに思い出してしまったからだろう。
きっと自分がしつこくまとわりつかなければ、長畑は喋ってくれなかったはずだ。
逆に「話させてしまって、ごめんなさい」という気持ちになった。
何かあるなら力になりたいのだ、と思っていた。でもそんな昔の事で、八束は全く関与しようがない事で、今更どうにもならない事で。
謝る機会など一生ないし、真実がどうなのかもわからない。
思いつく限りの慰めの言葉をかけたところで、それはその場しのぎの、安っぽいものになりそうだった。
長畑もそれを、必要とはしていないだろう。
(──自分はこの人の悩みを聞いて、どうするつもりだったんだろう)
自分がこの男の為に、何かできた事があっただろうか?
そもそも自分が隣にいて、この男にプラスになる事があるのだろうか?
そんな事を考え始めると、情けなくて仕方がなかった。
自分が手を伸ばしようがない事で彼が思い悩んでいるのが情けなくてたまらなくて、八束は奥歯を噛みしめる。
「──八束?」
黙り込んだこちらを、長畑が不審げに、見つめてくる。
「どうしたの」
「……」
「泣いてるの?」
「……泣いて、ません」
目から何かこぼれかけたので、うつ伏せに顔面をシーツに押し付けたまま、答える。
だが押しつぶされた声はひっくり返っていて、説得力の欠けるものだった。
「……なんで、君が泣くのさ」
「泣いてませんし、俺は泣きたいわけでもないです」
ただ勝手に、目から液体が出て止まらなくなっているだけだ。時差ボケで涙腺がおかしくなっているのだ、という事にして頂きたかった。 八束自身も、何故こんなに感情が荒れるのか、よくわからない。
悲しいというよりは、自分自身に腹も立っていたし、悔しいという気持ちの方が大きい。
馬鹿みたいだ、という事はわかっているのだ。
でも押さえられない。
よくわからない。
こんな感情を制御できない人間だから、周囲は自分を子ども扱いするのだろう。
言われなくてもわかっているのに、情けない。
「……君は、感情豊かだなぁ」
少し感心したような声が、頭上から降ってくる。
「ごめんね。君だって、いろいろ体験してるだろうに。いい年こいて、情けないよね」
長畑の言葉は、八束が父親を亡くしている事を言っているのだろう。
八束は首を振った。何度も首を振った。そこを気遣ってほしくはなかった。
「情けなくないです。思い出し落ち込みしない人がいたら、そのひと人間じゃないと思います」
シーツに顔面を沈めたまま一生懸命、言葉をひねり出した。
「思い出し落ち込み……思い出し笑いの親戚か何か?」
「多分」
後頭部を撫でられて、八束はその体勢のまま、頷いた。
「まぁ、明日お墓行く予定だから、挨拶ついでに謝るよ。馬鹿な息子ですみませんでしたって。君もおいでね」
「……俺、行っていいんですか?」
「当たり前でしょう? なんの為に来たの、君」
「なんのって」
──長畑の帰省のオマケ気分でくっ付いてきて、ついでに彼の故郷とも呼べる地を見てみたい。
そんな気分だったわけだが。
「うちの両親に、君の顔見せたかったの。こんな子と元気でやってますよ、ってのを。だから来てって言ったのに」
「…………」
八束は、長畑が言った言葉を脳内で三回くらい復唱した。
ご両親にご挨拶。
何だか大変な儀式がひかえているような気がして、目から流れる液体が瞬時に引っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ俺普段着しか持ってきてない……!」
「だから、最初からお墓行くって言ってたじゃない。僕もスーツなんか持ってきてないし、服は普段着でいいよ。そんなに難しく考えなくていいから」
だから早く寝なさいね、と頭を軽く小突かれた。
そうは言われても、長畑がそんな気持ちでいたのだと知ったら、なんだかとてつもなく緊張してきた。
「頼りないって、駄目だしされたらどうしよう……」
相手は故人なわけだが、もし夢にでも出てきて「お前は認めない」なんて言われた日にはどうすればいいのだ、と八束は頭を抱えた。
釣り合っていないのは自分自身が一番良くわかっているし、何より自分は男である。
八束自身も母親に「この人と付き合ってます」とは怖くて言えていないのだ。
「そんなに悩む事? 相手、もう10年以上前にいなくなっているのに」
「だって長畑さんの両親じゃないですか! 特別ですよ悩みますよ!」
「まぁ、呑気な人たちだから、気に入らないからって祟ったりはしないと思うよ。大丈夫大丈夫。僕からも、これから頑張ってくれる予定ですって言っとくからさ」
「うーん……」
返事に困って、八束は唸った。
──という事は、今は駄目駄目だと、長畑にも思われているという事なのだろうか?
考え始めたら、どんどん落ち込んできてしまった。
「長畑さんって、俺のどこが良くて付き合ってくれてるんですか……?」
八束がシーツに顔を押し付けたまま、横面で睨むように言えば、長畑は目を丸くした。
「君の?」
「俺の」
「そりゃあ、まぁ」
伸びてきた手のひらに頭を挟まれて、上を向かされたと思った瞬間、目元に口づけられた。
「……」
「しょっぱいな」
にんまりと、長畑の唇が動くのが見えた。
「……汗です、多分」
意地でも涙だとは言いたくない。
そう言い切ると、長畑は「そういう事にしておいてあげる」と意地悪く笑った。
「君の素直さと人間らしさ、って言ったら納得してくれるの?」
「……もうちょっとわかりやすい言葉でお願いします」
抽象的過ぎて、よくわからない。
「だって君、可愛いって言ったら怒るし」
「だって、そういうこと言ってほしいんじゃないんですよ」
だって合戦になってしまった。
不機嫌に頬を膨らませていると、長畑の腕と足が、がっしりと八束の体を捕獲するように絡みついた。
「もう寝なさい。明日、遊び足りないグラハムが、扉蹴破ってくるよ、多分」
「……」
八束にはその光景が、妙にリアルに想像できた。
そう言えば、ここは彼の家だったことをすっかり忘れていた。
同じ布団で寝ているなんて姿を見られれば、「ずるい」だの何だの、理不尽な理由で怒られそうな気がする。
なので大人しく自分のベッドに戻ろうとしたのだが、絡みついた長畑の腕と足が、それを許してくれない。
「長畑さ……」
呼びかけたところで、寝息が聞こえてくるのに気付いた。
隣の男は自分を捕獲したまま、真面目に寝入っている。
(寝るときは自分のベッド行けって言った癖に……!)
言った本人が先に、この状態で揺すっても起きないくらいの熟睡モードに突入している。
だが眠そうにしていたところをしつこくまとわりついたのはこちらなので、文句は言えない。
考えてみれば、朝っぱらから車を運転して空港まで連れて来てくれたし、海外は右も左もわからないこちらの面倒を見て、飲みつつも人間関係に気を配り、彼は相当疲れていたのだろう。
頑張れば腕の中から抜け出せそうな気もしたが、そうする理由も特に思い浮かばなかった。
「……」
冷静に考えれば、近すぎるわ何だかんだで寝るどころの騒ぎではないのだが、あまりそれを考えないようにして、この状況を楽しむ事にして、八束もこのまま寝る事に決める。
明日は彼の、お墓参りについて行くのだ。
彼の両親に認めてもらえるのはわからない。
だが自分も、本気でこの男の隣にいたいのだという事を、伝えたいと思った。