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薔薇色の道

11 遅く起きた朝のなかで


快適な暖かさの中で、目が覚めた。 窓の外からはやわらかな日差しが差し込み、鳥の元気な囀りも聞こえる。
外が随分明るくなっている、というのはわかったのだが、八束はもう少し寝ていたかった。
寝返りを打とうと、もぞりと体を動かすと、顔が何か大きなものにぶつかる。
「……?」
八束は、ぼんやりとした思考でそれを見上げた。
ぶつかった、と思った大きなものは、隣にいた人間だった。
隣にいるその人間は、既に起きていた。半身を起こし、少々神妙な面持ちでこちらを見下ろしている。
「おはようございます……」
目を擦りながら、八束は呟いた。なんだか、状況がよくわからない。
ぼんやりとした思考を、少しずつ整理していく。
──寝ている部屋は、見慣れない空間だ。自室はこんな、しゃれた部屋ではないし、もう少し散らかってるはずである。
シーツも、自分の部屋のベッドにあるものとは違う。
(……旅行。そう旅行中)
飛行機に乗って長旅を終えて、異国にいる。長畑と一緒にいるのだ。
そこまで思い出して、ようやく今の状況が理解できた。
昨日、この男に引っ付いてうだうだと話していたのは覚えているが、自分の体も意外に疲れていたらしい。「疲れはない」と言っていたが、慣れない状況にハイになっていただけなのだろう。夢も見ないくらいに、よく寝ていた。
だが隣でこちらを見下ろしている男の表情は、「爽やかな朝」を迎えた、というようなものではなかった。
「……なんで、君がここにいるんだっけ」
「へ?」
神妙な面持ちのままそう呟いた長畑に、八束は目を丸くした。思わぬ問いかけに、一気に目が覚める。
「なんか、いろいろ話してたところまでは覚えてるんだけど……半分寝てたのかな。最後の方の記憶が、あんまりない」
「い、意外に酒回ってたんですね……」
とてもしっかり話しているように、八束には見えていたのだが。
長畑は眉を寄せて、前髪を掻き毟っている。
「普段は、飲んで記憶飛ばすような事ないんだけどね。疲れてたのかな。朝起きたら君が隣にいたから、僕がもしかして引っ張り込んだのかなと思って、ちょっと焦った」
(あぁ、それで微妙な顔してるのか……)
八束も曖昧な笑いを浮かべつつ、身体を起こす。
「どこまで覚えているんですか?」
「君が、僕の話を聞いてくれた辺り。それから後はあんまり」
「……」
確かに「途中で気絶してたらごめん」と言っていたし、この男は眠気を限界までこらえてこちらの相手をしてくれていたのだろう。
──優しすぎる。そしてごめんなさい。
そんな気持ちが、心の底から湧いてきて、八束は非常に申し訳ない気分になった。
「……話してる途中で俺がこっちに移動して、そのまま寝落ちした長畑さんにホールドかまされただけです。その後は俺も寝たので、何もないですよ」
「あぁ、そうなの……。それは……ごめん」
長畑は額を押さえ、うなだれている。この様子では、この男は目覚めた瞬間、相当に肝を冷やしたに違いない。
八束は、今まで自分が寝ていた枕を見下ろした。
口を半開きにして寝ていたらしく、枕にはよだれの染みができていた。顔にも若干、垂らした跡がついていたので、気付かれないように手で拭う。
彼の焦りなどつゆ知らず、自分は呑気によだれまで垂らして寝ていたのだ。
見られていたら嫌だなと思ったが、長畑もそれどころではなかったらしいので、「きっと大丈夫」という事にして、証拠の枕をひっくり返す。
(でも、そこまで焦らなくても……)
「引っ張り込まれていたら」こちらも呑気に寝ているどころの騒ぎではなかっただろうが、そこまで動揺されるという事は、長畑にとって自分は「手を出してはいけない生き物」という事になっているのだろう。
確かに、一度そういった雰囲気になったとき、拒んだのは八束だ。
だがそれから月日も経って、少しは心境の変化というものもできているのだ。
大事にされているのはわかるのだが、なんだか逆に、無駄な反発心が湧いてくる。
──覚悟ができているわけでも、ないのだが。
「君、今夜からはちゃんと隣のベッドで寝なさいね」
「そうしますけど……長畑さん」
「なに?」
「俺だって、男なんですよ」
「うん」
シーツをぎゅっと掴みながら言えば、ベッドから起き出そうとしていた長畑は「そうだね」という顔をして頷いた。
「それに俺だって、下心とかその……エロい心だってあるわけですよ」
「うん。ないと怖いからね」
当たり前だとでも言うように、長畑はいつもの爽やかな笑顔で答えた。
そこまで当然のように頷かれると、八束は言葉に困ってしまう。
あまり、普段からこの手の話題を話すのが得意ではない。
照れを見せれば同級生たちからは「初心だ」と面白がられるし、それはそれで腹が立つし、かと言って照れなく話せるほどまだレベルも高くなく、全く会話に加わらないほど興味がないわけでもない。
佐々木などは、「お前にはちょっとこの手のお話は早いんじゃないの?」と小馬鹿にしている。
人とは少し違う恋愛をしているこちらを、気遣っている気配も、ない事はないのだが。
「だから別に……何て言うか俺も、あんまり貴重品みたいに扱ってくれなくてもいいって言うか」
言葉を選びながら声を絞り出せば、長畑は呆れたようにこちらを見た。
「朝からまた君がなんか難しい事考えてるねぇ。君の変わりはいないんだから、貴重なのは間違いないじゃない」
「だから、そう言うことじゃなくて……」
うまく言えない。
大事にされるのは、本当に嬉しいのだ。
だが、自分も同じくらい、目の前の男を大事にしたい。
なりたいのは同等の関係であって、一方的にも守られたいわけでも、気を遣われたいわけでもない。自分だってこの男の支えになりたいのだ。
だが現実はこんなもので、差は歴然としている。
頭で思っているだけで、身体も心も、理想になかなか追いつかない。いざとなっても腰が引けてしまう自分が、非情の情けない。
黙り込んでしまった八束を見下ろしながら、長畑も首を傾げてしまっている。
恐らく、朝っぱらから不機嫌なこちらが、何を言いたのかよくわからないのだろう。
八束だって、自分が言い出したのによくわからなくなってしまっていた。
「ふーん……まぁ別に僕は、君に襲われても一向に構わないけど?」
「え」
ぽろりと呟かれた言葉に固まる八束に対し、長畑はいつもの、華やかな笑みを浮かべて答えた。
「ただし、楽しませてくれるならね。……そういうものでしょう?」
まぁ冗談ですけど、と付け加えて、彼は笑い飛ばした。
(そういうものなのかどうかも、よくわかんないけど)
ただこの男は、好きな人の前で慌てたり緊張したり、多少手が触れたからといって飛び上がりたくなるほど嬉しくなったりと、そんな激しく情緒不安定になるような時期はとっくに過ぎているのだな、と思った。
この男がドライなだけなのかもしれない。
だが、他人と肌を合わせる楽しさも知っている。
自分のように一大決心しなければならない、というわけでもないのだ。
今更ではあるが、青臭さしかないこちらの事を、長畑はどう見ているのだろう?
そう考えると、猛烈な恥ずかしさが襲ってきて、八束は唐突にのた打ち回りたくなった。
「ちょっと、ベッドの上でじたばたしないの。そろそろ起きよう」
長畑がそう言いかけたのと、部屋の扉が軽快にノックされて開くのは、ほぼ同時だった。
「ちょっと君ら、休みだからって起きるの遅すぎー。私ずっと待っ……」
不機嫌な顔で文句を言いかけたグラハムが、同じベッドにいるこちらの姿を見た瞬間、らしくもなく固まったのが、八束にもわかった。
「…………すみません、気が利きませんで」
「利かせなくていいです!」
すす、と扉を閉めようとしたこの家の主に、八束は朝っぱらから、力の限り叫ぶ羽目になった。


「いじめですよこれ。独り身に対する。せっかくおいしい朝ごはん作ろうと思って、早起きして待ってたのにー」
ぐちぐちと不機嫌に言いながら、グラハムが朝食の皿をテーブルの上に並べていく。
皿の上には、たった今焼かれたばかりの目玉焼きや見慣れぬソーセージらしきもの、トマトなどが乗っていた。
「別にいじめとか、そんなつもりは全くないんですけど」
目の前に皿を置かれた長畑は、朝から元気に料理をする身内を、感心するように見ている。
「独り身って言うけど、それは君が特定の相手作らないだけじゃない。遊び相手だけならたくさんいる癖に」
「ちょっと、やめてくださーい。健全な青少年の前ですよ。自分が汚れて見えるじゃないの!」
「あーあー聞こえなーい」と言うように、グラハムは耳を両手でふさいで見せた。
(いるんだ、そう言う人……)
あえて何も言わなかったが、テーブルに着いた八束は、静かに納得していた。
グラハムは、何も知らずに見た目だけで見るなら「映画俳優です」と言わても納得してしまいそうだし、陽気である程度財力もある。人ともすぐ親しくなって、輪の中心にいるような男だ。
強引で無茶も言い、人の話を聞いてくれないという欠点はあるが、客観的に見ればこの男はなかなか魅力的だと思う。
「私の事はいいんだよ。ところで永智、昨日からちょっと調子悪そうだったじゃない。だから記憶すっ飛ばしたんじゃないの? 大丈夫?」
問われた長畑は、紅茶の中に砂糖を投げ込みながら、グラハムを見た。
「……具合悪いとかはない。最近あまり量飲んでなかったから、お酒少し弱くなったのかなぁ、と思って。もう若くないんだなーって実感したよ」
「そういう台詞はあと十年くらいたってから言って下さい。君にはまだ早い」
「……グラハムさんも昨日ベロベロでしたけど、今日は元気なんですね」
入れてもらった温かい紅茶を飲みながら八束が言うと、グラハムも席に着いた。
「あれくらいならむしろ熟睡できていいんだよ。あれ以上飲んだら完全二日酔いコースだけど。別に永智もお酒残ってるわけじゃないんでしょう?」
「それはない。久しぶりによく寝た」
「ふぅん……まぁ朝ごはんしっかり食べて元気出しなよ。残すの禁止」
「はい」
珍しく素直に、長畑が返事をした。
「あ、そう言えばね、サーシャは昼前には来ると思うよ」
焼いたトマトをフォークに突き刺して、グラハムがにっこり笑った。
「思う?」
その言い方に、八束が疑問を浮かべて首を傾げると、グラハムはトマトを咀嚼しながら言った。
「いつ来るのーってさっき電話したら、無言で切られたから。多分、あれは寝てたね。だから昼前くらいには来るんだと思う」
「へ、へぇ……」
自信満々に言うグラハムを見て、八束は微妙な相槌をうった。
それでコミュニケーションになっているのだろうか。相変わらず、よくわからない友情を築いている男たちである。
「だから、サーシャもそろったら今日は出かけよう。その前に、八束君にはいいものを見せてあげるね」
「……いいもの?」
「うん。何かは見てのお楽しみ。ここでしか見れないものだよ」
「何か、すごく嫌な予感がする……」
にんまりと機嫌よく笑うグラハムに対し、長畑は少々不安そうな表情を浮かべて茶を啜っていた。


「これですよこれ。うちの家宝とも言える」
朝食が終わると、片付けもそこそこに、グラハムは自室から一冊の大きな本を持ってきた。
本と言うにはサイズも大きく、革張りの表紙も、中の用紙も分厚い、立派な物だ。
「……アルバムですか?」
「当たりー。永智の小さい頃とかの写真とか、残ってるよ。見る?」
「……僕は皿洗ってくる」
長畑はすっと立ち上がると、台所に向かう。
「なに。君も見ればいいのに」
「昔の自分を見る趣味がない」
長畑は全く興味がないらしく、面倒そうな顔をして言うと、台所へ歩いて行ってしまった。
「照れ屋さんなんだからねー、ほんと。ほら、君はこっち来なさい」
グラハムに促されてリビングのソファに腰かけると、ずっしりと重いアルバムを手渡された。上品な茶色の革張りの表紙は、味わいのある色合いになっている。それはこのアルバム自体が、そう新しいものではない事を示していた。
遠慮がちに開くと、仲にはこれまた古い写真が数枚ずつ、丁寧に貼られている。
じっくり見ていくと、見覚えのある人物の姿が、ちらほらと見えた。
幼い頃の長畑の姿が、あちこちの写真に写っている。
「可愛い……」
「でしょう? すごく天使でしょう? 実物はもっと良かったよ!」
八束の呟いた言葉に、グラハムは顔を輝かせて反応する。
だが彼の写真は、ある程度──十代前半くらいの年代の写真しかないようだ。
「もうちょっと大人になってからのは、ないんですか?」
「写真あまり好きじゃないみたいで、あんまり撮らせてくれないしねー。そのアルバム自体、元々あの子のご両親の持ち物だから。私が写真足してるわけじゃないし」
「へぇ……」
そうなのか、と思いつつ、八束はページをめくった。確かに半分以降のページには写真が入っておらず、白紙だ。
このアルバムに写真を挟んでいたのは、長畑の両親。
家族で写っているもの、長畑一人で写っているものといろいろあるが、こんなにたくさん子供の写真を写して、年代順に丁寧にアルバムにまとめているのだ。長畑が言うとおり、愛情深い人たちだったのだろうな、と八束は思った。
「でも、こんなに小さかったのに、人間あそこまで大きくなるものなんですね」
写真に残る長畑の幼少時代は、華奢で線の細い、容姿端麗の子供と言った様子だ。
儚げな雰囲気を持った中性的な少年は、数年後には一気に背が伸びて男らしくなる。
写真からは想像できないが、実際に実物がいるので信じるしかない。八束は一気に背が伸びた方ではないので、爆発的な成長というのがうらやましかった。
「年ごろになったら、会うたびに背が伸びてたからね。本人も膝が痛いとか言ってたし。君は、いつ見てもこのサイズだよねー」
「伸びてますよ! ちょっとは!」
むきになって言えば、グラハムはへらりと笑顔を浮かべた。
「ところで君。あの子、大丈夫だった? 昨日」
声を潜めて問うグラハムに、八束も怒りを抑えて、息を吐く。
「……一応。ただもう自己完結してるみたいで、俺が何か言える事じゃなかったです。ときどき思い出して、落ち込むだけだからって」
「ふぅん……」
何が、とは言わなかったが、八束の言葉で、グラハムは事情を察したらしい。
相槌を打ちながら、頬杖をついた。
「教授夫妻の名誉の為にも言っておくけど、彼らは本当にあの子の事可愛がってたんだよ。放置してたわけじゃない。あの子が賢かったから、甘えてた部分はあったかもしれないけど。……半分駆け落ちみたいに結婚して、なかなか子供に恵まれなくて、やっとできた子だからってずっと言ってたからね。でもね、彼らはその筋では名の知れた人たちだったから、仕事もしなくちゃいけなくて。彼らもそれが好きだったし」
大人の都合ですけどね、とグラハムは呟いた。
「……そう言うのは、どこの家でもあると思いますよ」
八束はアルバムに視線を落としつつ、呟く。
そんなの、よく聞く話だ。
ただ長畑は子供ながらにとても我慢ができる子で、両親にも遠慮をしていて──ある日限界が来ただけなのだ。
誰が悪い、と思っているわけではない。
「まぁねぇ。ただ、あの子は自分がしっかりしなきゃって思うのが人より強くて、他人に甘えるのが超下手だから」
「……」
八束も無言で、首を縦に振った。
長畑の強さは尊敬しているが、それと同時に、その点は不器用だとも思っている。
「三十年も生きてる人間の性格変えろって言っても、今更無理だからね。でも、君に言えるのならまだいいかな。まかせるから、頑張ってよ」
グラハムはソファに深くもたれながら、言った。
「……言われなくても」
言われなくても、そのつもりだ。そんな思いで隣の男を睨むように見れば、グラハムは楽しそうな笑みを浮かべてそれを受け止める。
「よしよし、良い目だねぇ。で、何か最近変わった事は他にあるかな? あの子がらみで」
八束は考えるように首を捻った。
「……仲が良いのかはわからないんですが、長畑さんにお友達ができました」
「へぇ。珍しいね、あの子友達少ないから。どんな人?」
「グラハムさんも会ってますよ。霧島さんです」
「キリシマって……誰だっけ?」
「話してたじゃないですか。あのメガネの、長畑さんによく花束くれる人」
「あぁ!」
合点が言ったように、グラハムは拳で手のひらを叩いた。
「なに。彼、まだ君らにまとわりついてるの? 止めなさい、あんなのと付き合うの」
「あんなのって」
グラハムの言い方に、八束は眉を寄せた。
「ちょっと変わってますけど、悪い人じゃないんですよ。気遣ってくれるし」
「君いじめられてたじゃない。あれは駄目。顔がもう下心丸出し。可愛くない。却下。メガネかち割りたいの必死にこらえてたもん、私」
「別に、いじめられてはないです……」
グラハム的に、霧島兄は既に「NO」な存在となっているらしい。今度グラハムが来日することがあれば、会わせない方がいいなぁ、と八束は思った。
それと同時に、ここまでグラハムに嫌われていなくてよかった、とも思った。
この男に「NO」を突き付けられれば、長畑と穏やかに一緒にいることなんてできるはずがなかっただろう。
そう考えたとき、玄関のインターホンが鳴る。
「グラハム。サーシャが来たよ」
応対に出た長畑が、玄関を指しながらこちらにやって来た。
「はいはい。読み道理ですねー」
グラハムは笑いながら立ち上がる。
玄関に向かうグラハムの背を眺めて、八束はアルバムを閉じた。
(最初の頃……『俺を見てくれ』って、俺キレたんだよなぁ)
アルバムの、色あせた皮の表紙を撫でる。
このアルバムに比べれば、自分たちの歴史というのは、まだまだ浅い。
長畑と出会った頃、あまりに彼が昔の事しか見ていないような気がして、そして自分の事なんかこれっぽっちも見てくれていない気がして苛立ち、子供じみた癇癪をぶつけてしまった事を思い出す。
だが愛情深く今もそんな後悔を抱えている男だから、家族の事を忘れられるわけがないのだ。
──それを、自分の気持ちの整理をつけられないばかりに、ただ一方的に言葉をぶつけて、しかも逃げてしまった。
自己中心的。
最低最悪だな、と八束は、当時の自分をなじる。
(俺も少しは大人にならないと)
そろそろ、あの頃の自分とは違うのだという事を見せなければ。
八束はそう決意して、立ち上がった。