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薔薇色の道

14 決意表明


グラハムは「サーシャを送って行く」と、一足先にタクシーを拾って行ってしまったので、八束は長畑と二人、グラハムの家に先に戻っていた。
時刻は午後の三時を回っている。長畑は一人、現地の新聞を真面目に読んでいたので、八束も大人しく向かいのソファに腰かけていた。
(……暇だ)
この状況を暇だと言うのは罰当たりなのかもしれないが、実際やる事がない。
テレビを点けてみたが、ニュースもバラエティも、流れてくるのは当たり前だが英語ばかりである。ぽちぽちとチャンネルを変えながら、たまたまやっていた映画にたどり着く。少々古めだがアクション映画だったので、言葉がわからずともなんとか内容がわかる。だが何と戦っているのかは、さっぱりわからなかった。
八束はソファに座ったまま、自分のバッグをあさる。
中から取り出したのは、以前グラハムに誕生日祝いに買ってもらった手帳だ。
もともとそこまでまめな性格ではないので、日記をつけるような事はしていないが、学校行事や試験の予定、バイトの予定などはきちんと書きこむようになった。友人の佐々木は「手帳とか、細かい奴だなお前」と笑うのだが、何となく気に入って買ってもらった手前、きちんと使わないと悪い。
しかし記録というのはしてみるもので、メモ書き程度でも以前の事が振り返りやすいし、予定も立てやすい、と感心していた。
八束はマンスリーのページをぱらぱらとめくる。
七月の後半は、このイギリス旅行で埋まっている。
夏休み明けにはまた校内模試があり、二学期になると体育祭に文化祭が続く。
その間に中間試験もあり、十二月になれば期末試験もある。卒業までに車の免許は取っておきたいし、だからと言ってバイトの時間を減らしたいわけではないし、やらなければならなことは沢山あった。
(……長畑さんの誕生日もあったな)
目の前の今新聞を熱心に読んでいる男は、真冬の生まれだった。
去年は誕生日を教えてくれなかったので、祝えなかったという情けない思い出がある。
十二月の後は年が明けて、一月。
高校三年生の三学期なんて、あってないようなものだ。
大学受験を控えている人間は気が気でないのだろうが、そんな予定もないこちらは、彼らよりは呑気な気持ちで、年を越す事ができるのかもしれない。
しかし来年の春、自分がどうなっているのかわからない、というのは受験組も就職組も同じなのだ。
手帳を開いて眺めたまま、八束はソファにごろりと横になる。
クラスには八束以外にも、就職希望の生徒はいる。しかし普通科の進学校に求人がそこまで来るわけもなく、このご時世もあって就職が決まった、という話はほとんど聞かない。だが周囲の生徒は、あまり焦っている様子がなかった。皆「どうにかなる」とか「決まるまではバイトしようかな」などと、案外呑気に構えていたりする。
確かに焦っても仕方ないとは思うのだが、こちらは周囲ほど、あまり呑気に考えてもいられない。
もともと、あまり干渉してこない母親は「まぁ、あんたなら何とかするでしょ」と楽天的に考えているらしく、こちらの進路には口を出すことがほとんどない。信用されていると言えばそうなのだが、自分は長男で、家族の中では唯一の男だ。何かあったときにはしっかりしなければならないとは思うし、妹はまだ小さい。これから家族を支えるのは自分だ、という思いはあった。
以前は、仕事とは金を稼ぐところと割り切っていたので、職業選択なんてあまり考えてなかった。就職できればそれでいいと考えていたので、受かったところで頑張ればいいと思っていた。だから将来の事に悩むなんて、なかったはずだった。
しかしその考えが、ここ一年で少し変化した。
(全部、この人に会ってからだ)
責めたいわけではない。
だが自分は何をしたいのか、どう生きたいのか。そんな、小難しい事を考えるようになってしまった。
手帳を手に、考えをまとめようと思うのだが、なかなかまとまらない。
(いろいろ、やる事は多いんだよなぁ)
自分の人生に関わる事なのに、この時期のやらねばならない事、決めなくてはならない事の多さと言ったらない。
八束は少し憂鬱な気分で、手帳を閉じて軽く息を吐いた。
(──自分は今、どうしたいのだろう?)
早く、こんなにぐだぐだした自分から卒業したい。いつまでもこんな姿を長畑に見せているのは情けないし、あれだけ対等に存在になるのだと誓ったくせに、口だけだと思われたくもない。彼の両親の墓前でも、頑張るのだと誓った。
自分は今後、本当にどうしたいのか?
来年の今頃、どうしているのだろうか。
この男との関係は、どうなっているのだろう。
今のバイトも、辞めているのか?
(……辞めたくない)
心の中で、「辞めます」と言う自分を想像したとき、胃の奥からしくしくと痛むような何かが広がってくるような感じがした。
今八束がやっているのはほぼ雑用で、彼の仕事に大きく関わっているわけではない。役に立っているともあまり思わない。
だが、辞めたくない、と思った。
汚れるのは、嫌ではない。土に近い仕事も嫌いではない。当初はバラ、という言葉に多少の気恥ずかしさも感じたし、バラ園でアルバイトを始めた八束の事を「似合わない」とからかう友人もいたのだが、綺麗なものは綺麗だ。心からそう思うのだから、そんな事を言う人間は放置しておけばいい、と今は思っている。
どうすればバラを美しく健康に咲かせることができるのか、どう仕立てれば綺麗に見えるのか。それを、長畑は若いながらも熟知している。腕の良い庭師であり、生産者なのだ。
良い腕と専門知識を持っているから、あんな片田舎でも商売が成立するのだろう。彼の語学力やイギリス仕込みの造園技術を頼って、遠方から問い合わせをしてくる人間もいる。
彼の仕事をいつも横から眺めているが、面白そうだなとは思う。
格好いい、とも思う。
何かにのめり込めるという事が、そういうものを持たなかった自分には、とても羨ましいのだ。こんな男になれればいいのに、と何度思ったかわからない。
だから今、彼の仕事の手伝いをするのは、長畑に対する好意を抜きにしても面白いのだ。
(辞めたくはない、んだけど)
八束は目を閉じる。
本当に自分は、それで稼げるのだろうか? それはただの甘えではないのか?
今は、長畑の仕事を隣で見ていて「自分も」という気分になっているだけだ。情熱も技術も知識も、彼には劣るだろう。
その職を選んで、自分は家族を守って行けるだろうか? うまくいくかどうかもわからないような特殊な世界に飛び込むより、普通に就職した方が稼げるんじゃないのか?
そんな保身も考えてしまう。
(……我ながら、ゲスい)
夢と現実に折り合いをつけるのは難しい。八束は手帳を閉じた。
「君、暇そうだねぇ」
ソファの上でごろりごろりと転がっていると、新聞から視線を上げた長畑が笑いながらこちらを見た。
「……時間の使い方がわからないだけです」
身を起こして長畑を見れば、彼は苦笑していた。
「僕もだよ。こんなに何もしていないのが久しぶりだからね」
「俺もです」
八束は何もしないでいるというのが苦手だが、長畑もそうらしい。
「長畑さん」
「なに?」
「誕生日が十二月に来ますけど、何が欲しいですか?」
「どうしたの、いきなり」
八束の突然の言葉に、長畑が目を丸くした。
「いえ、去年きちんと祝えなかったし、俺のときはケーキ貰ったりいろいろしてもらったので、今度はちゃんと祝いたいと思って」
「いいよ、三十過ぎて誕生日とか別に」
「俺が祝いたいです」
語調を強めて言えば、長畑は苦笑を浮かべた。
「んー、じゃあ考えておくね。何にしようか」
「何でもいいですよ。……ただあんまり高いのは、財布的に無理ですけど」
「君にそんな、高価なものをねだろうとは思わないよ。そうだねぇ。じゃあ、身近なところで、君とか?」
「え」
八束が表情を固まらせると、長畑はこちらを見て、非常に楽しそうな笑い声を上げた。
「冗談だよ。べた過ぎて面白くないけど」
「あ、いや……面白いとか面白くないとかではなく……」
(この人時々、笑えない冗談かっ飛ばすよなぁ)
八束は乾いた笑いを浮かべながら、内心冷や汗をかいた。いつもの調子で、そんな吹っ飛んだ事を言われても反応に困る。
「どうぞ」と言えばいいのか「勘弁してください」というべきなのかも、よくわからない。
完全に、そういったタイミングを見失った感があった。
「でも、長畑さんって、あんまり物が欲しいって感じ、ないですね」
「うーん……そうかも。この歳になってくるとね、あまり何が欲しいとか、そういうがつがつしたのが無くなってくるからね」
「そうなるのは、ちょっと早くないですか?」
「そうかなぁ?」
長畑は首を傾げた。グラハムも言っていたが、この男は年齢の割に、落ち着き過ぎだ。
「でも二十歳くらいのときに比べたら、自分も大人しくなったなって思うよ」
「若い時、どんなだったんですか? なんかこう、はじけちゃってた感じ?」
あまり想像ができないが、と首を捻りながら問うと、長畑は苦笑を浮かべた。
「悪い意味ではじけてたのかもなぁ、って思う事はあるよね。結構僕は、きつい人間だったから。今もだけど。考え方が理詰めで、今思い出しても可愛くないなぁ、と思う」
「へぇ……」
あまり想像できないな、と八束は眉を下げて笑う男をまじまじと見た。
今より悪い意味ではじけていて、性格がきつくて、理詰めな男。
想像してみて、二十歳であれば今の八束と年齢の差はさほどないのだが、仲良くなれる気が微塵もしなかった。
今よりも理解不能で、少々近寄りがたい部類だったかもしれない。
「長畑さんが二十歳のときって……俺、八歳ですね」
そう考えてみると、改めて歳が離れているのだな、と思う。
「そうだね。まさか、十年前は今こうして、君といるとは思わなかった」
「それは、俺もですけど……長畑さんって、どういう人と付き合ってたんですか。その頃」
「どういう人って……」
長畑が少し考えるように、視線を漂わせた。
(あぁ、いっぱいいるんだ、付き合ってた人……)
こんな容姿の男が、モテないはずがない。だが以前、グラハムから「どこで拾って来たのかと思うようなのばっかりと付き合っていた」と聞いている。それが、少し気になっていた。
「言わなきゃ駄目?」
「俺は、知りたいんですけど。もともと、どんな人が好きなのかとか」
「もともとは、年上が好きなんだけど……ちょっと、そんな絶望した顔しないでよ」
「いや、大丈夫です。ノーダメージです」
首をぶんぶんと横に振ったが、その言葉はしっかりと八束に刺さっていた。
(いやでも、理想と現実は別って言うし)
この男なら、理想と合致した人間を捕まえる事など余裕だったかもしれないが──八束はそう、自分を慰める。「自分、もともとは好みじゃないって事じゃん」と考えると、当たり前なのだが死にたくなりそうだったので止めた。
「まぁでも、前にも言ったと思うけど、僕の性格が悪いからあまり長続きはしなくてね。結局、甲斐性がなくて振られるわけですけど。若かったから、わりと欲望に忠実なお付き合いはしていたかもね」
「へ、へぇ……」
ぼかしながらもにっこりと答えてくれた言葉は、若干アダルトな雰囲気を持っており、八束は言葉に詰まった。
(あまり聞かないでおこう……)
いろいろ考えてしまって、ドツボにはまってしまう危険性がある。
「君こそないの? そういう、恋愛経歴」
「ないに決まってるじゃないですか」
眉間に皺を寄せながら言えば、長畑は笑った。
「君、優しいしモテそうなのにね」
「微塵もモテません。佐々木は、やたらモテるんですけどね。俺は別にモテたいとも思いませんが」
「あぁ、彼はどことなくこなれた感じがするものね。今時っぽいと言うか」
にこにこと笑いながら、長畑は相槌を打った。
「彼、良い子だよね」
「まぁ、良い奴ですけど……長畑さん、あいつと話した事ありましたっけ?」
「あるよ。会えば話すし。前に携帯のメールアドレスも教えてくれたし」
「……え?」
八束は眉間に皺を寄せながら、笑顔の長畑の顔を見つめた。
自分の親友と恋人。そこまで接点があるとは思わなかったのだ。
「彼はあんまり僕の事は好きじゃないみたいだけど、僕はああいう気の強い子は嫌いじゃないんだよね。面白い」
「え……あいつ、なんか余計な事言ったりしてないですか?」
「いや? 全然」
長畑は顎の下で手を組みながら、にっこりと答える。
佐々木は、八束と長畑の関係を知っても賛成も反対もしていなかった。「しんどいなら止めろ」とは言っていたが、完全に傍観者の位置にいたはず、なのだが。
(あいつ、日本帰ったらいろいろ問い詰めてやる……!)
八束は、散々「イギリスって、飯まずいらしいぞ」と脅してくれた親友の顔を思い浮かべながら、密かに拳を握った。根は悪い奴ではないのだが、年上に対して稀に八束がびっくりするような態度を取ったりするので、少し心配だった。長畑は佐々木の事が嫌いではないようだが、どんなやり取りがあったのか、考えるだけでも胃が痛い。
「まぁ君がとてもモテる子だったら、僕は嫉妬してカリカリしてたかもしれないし。そこは良かった、と言うべきなのか」
(俺は既にカリカリしてますけど)
そうは思いつつも言えないので、八束は苦笑いを浮かべるだけにとどまった。
今更どんな人間が出て来ようが、自分達の関係が崩れるとは思わない。
だが元々の肝っ玉は小さい人間なので、すぐ動揺してしまうのが情けなかった。
ずっとこの男の隣にいるなら、自分はどんと構えていなければならないのだ。
「……長畑さん」
「ん?」
八束は、自分を落ち着かせながら目の前の男を見た。
「俺今、ちょっと進路の事で考えている事があって」
「うん」
迷いながら問いかければ、長畑は僅かに視線を正し、頷いて見せた。この男はいつだって、こちらの話を真剣に聞いてくれる。
「俺、最近ずっとこの先どうしようか考えてるんですけど」 「うん。なんか、そんな時期に引っ張って来て申し訳ないなとは思ってる」
「いや、それは俺も行きたかったから、いいんですよ。長畑さんと一緒なのは俺も嬉しいし、こんな機会ないと、俺は海外行こうとか思わなかったタイプですし。グラハムさんの住んでるところも、見てみたかったし。自分一人じゃ、絶対来れなかったですから」
八束は笑いながら答えた。
この男と出会ってから、それまで自分では想像していなかった世界が開けた気がする。
高校二年の春にいろいろな事がよくわからないまま「好きだ」と自覚して、それからは怒涛のようだったが、その間に自分たちは少しずつ、理解をしながら距離を詰める事ができたと思っている。
「だからその、ありがとうございます」
八束は真面目に、深々と頭を下げた。
「やめてよ。頭下げるなら、お金出してくれたグラハムに下げなさい。僕は来てって言っただけなんだから」
長畑は少々困ったように八束を見ていた。
「でも、連れて来てもらったおかげでいい気分転換にはなりました。もし次来る機会があるなら、ちゃんと英語覚えて来たいなって思ったし」
「まだ何日かあるんだから、そんな感想はまだ早いよ」
「だからこそ、ちょっとお願いがありまして」
「お願い?」
八束の遠慮がちな言葉に、長畑が目を丸くした。
「長畑さんが昔働いてたって言う農場って言うか、バラのナーサリーって言うか、そこが見てみたいんです」
「行くのは別にいいんだけど、ちょっと遠いよ? 田舎だし、多分面白い事はないと思うんだけど……」
長畑は、八束が何故こんな事を言うのかよくわからない様子だった。
「イギリスって、バラの有名なブランドがたくさんあるじゃないですか」
「うん」
「できれば、せっかくだからここにいるうちに、そういう農場とかを見てみたいなって思って……」
八束は俯きながら、唇を噛んだ。
長畑の反応が怖くて、回りくどくなってしまっている事が情けない。
「……俺、できれば、長畑さんと同じ道に進みたいって、少し考えているんです」
顔は上げられなかった。
腿の上で握りしめた己の拳を見つめながら、八束は言葉をしぼりだした。