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薔薇色の道

15 同じ轍を踏みたくない


八束は、膝の上の拳を見つめたまま、言葉を振り絞った。
気を抜くと、声が震えてしまいそうだった。
「俺は、別に惚気ているわけでも調子に乗っているわけでも、浮かれているわけでもないです。言い訳みたいですけど、俺が卒業と一緒に長畑さんのところを辞めたら、俺は多分、あなたの知っている事の爪の先程度も知らないままで終わるんだろうって思って、それが嫌だなって思ったんです」
そう言い切って、八束はつばを飲み込んだ。喉が異常に乾いている気がする。
長畑が自分に教えてくれたことなど、初心者でもできるような事ばかりなのだろう。専門知識がなくても、ちょっと教えればできるような事──枝の切り方だとか、水のやり方だとか、落ちている葉や病気の葉は取るとか、そんな簡単な事ばかりだ。
長畑はもっと、広範囲でものを見ている。
土の質から根の張り具合、肥料の配分から薬剤まで。
特別虚弱な品種から強健種まで、品種に合わせた育て方もできるし、品種にもとても詳しい。
相手はプロだから、すごくて当たり前だとも思う。だがそんな位置まで、自分も行ってみたい、と思うようになった。
言葉にしてみると、自分の中で薄らぼんやりとしていたその思いは、僅かに鮮明になったような気がした。
「それはいいんだけど、なんでそんな叱られたみたいな顔して言うの?」
俯いていると、長畑のそんな声が聞こえた。恐る恐る顔を上げれば、目の前の彼は八束が何故そんなに思い詰めているのかわからない、といった顔をしていた。
「誰も、悪いとは言ってないじゃない」
八束は、唇を噛む。
「……なんだか、こんな事を言うのが申し訳ないから」
「どうして?」
宥めるような声に、八束は再度、視線を落とした。
「自分だけのものが、見つけられなかったからです。長畑さんのところで一緒に働かせてもらっていいなと思ったって言えば聞こえはいいですけど、結局後ろを追っかけているだけで、俺個人で確立したものなんてなかったんだって思ったのが、情けなくて、恥ずかしいから……」
「そんなものでしょう? みんな」
八束は静かに、首を横に振った。
やってみたい、という気持ちは、嘘ではない。
だがまだ夢として語れるほど強固なものでもなく、自分自身でもそれに疑いを持っている。
できるのか。
自分がそれを、目指してもいいのか?
きちんとやりきれるのか。
そう思っているのは、自分だけの目標が決まらないが故の、逃げではないのか?
そう疑う心がある。
「君の人生だよ」
自分の言葉に動揺している八束に対し、長畑はいたって落ち着いていた。
「時間はあるんだから、きちんと悩んでしっかり決めなさい。君は若いんだから、多少失敗したってやり直しがきく。人生の一大決心みたいな、白か黒かみたいな勢いで決めなくても、大丈夫だから」
「……長畑さんは」
目の前の男の優しい言葉に、八束は視線を上げた。
「俺がこんな考えを持った事って、嫌ですか?」
「嫌も何も」
長畑は腿の上で指を組み、いつもと変わらぬ笑顔をこちらに向けてくる。
「決めたなら、好きにしなさい」
「……」
八束は、彼の言葉を噛みしめながら頷いた。
長畑の「好きにしなさい」とは、その通りなんでもいい、という事だけではなく「自分で責任を持って、自分の力でなんとかしてみせなさい」という事だ。
(この人らしい)
そう納得はしたが、少しだけ突き放されたような感覚を拭い去る事はできなかった。
そんな事を思う事自体、甘えがあったという事なのかもしれない。
(俺、この人になんて言ってほしかったんだろうなぁ)
八束がそう考えたとき、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー。サーシャを送って来たよ。ついでにお土産買ってきた」
リビングのドアが開くと同時に、グラハムがケーキの箱を抱えて能天気な声を出した。
「おかえりグラハム。ちょっと提案があるんだけど、いいかな」
「なになに?」
長畑に手招きに、グラハムがうきうきとした表情を浮かべてやって来た。
「明日ぐらいに小旅行しようと思うんだけど。どう?」
「なに、そんなわくわく計画二人で立ててたの? 行く行く。車出すよ。どこ行きたいの?」
「ウルヴァーハンプトン」
八束にはあまり馴染のない地名だった。しかり当たり前だが、グラハムにはすぐにわかったらしい。
「そりゃまた、のどかな方面に行きたいのね君たち。何したいわけ?」
「農園見学」
長畑がにっこりと答える。
「君の趣味かい……」
「いえ、俺が行きたいって言ったからなんですけど……」
八束が控え目に挙手しつつ言うと、グラハムは心底意外そうにこちらを見た。


グラハムがお土産にと買ってきたケーキは、洋酒とドライフルーツがこれでもかと入ったフルーツケーキだった。
味は悪くないのだが、イギリスに来てからひたすらいろいろ食べさせてもらっている為、「一週間の滞在だけで肥えそうだ」と、八束は歯ごたえのあるドライフルーツを噛みしめながら考えていた。
「そりゃ、君も思い切った発言したねぇ」
自分で買ってきたケーキを頬張りながら、グラハムが感心しているのか呆れているのかよくわからない顔で言う。
長畑は「甘い……」と呟きながら新たなお茶を淹れに台所へ行ってしまった。甘いものはそれなりに食べている印象があったが、ドライフルーツはあまり好きではないのかもしれない。新たな発見だった。
「で、なに。卒業したらあの子のところで真面目に弟子になる気?」
「もう半分、弟子みたいな気持ちではいるんですけど、思い上がりですかね」
「そうは思わないけど。意外だなとは思ってる。でも、らしいのかなとかも思ってるよ。よくわかんないね。でも言われてみればあの地方、あの子が昔働いてた農園があるんだよねぇ。いいよ。運転手でも何でもお付き合いしますよ」
「すみません。わがまま言って」
八束は頭を下げる。
「いいよ、そんなわがままじゃないし。ウルヴァーハンプトンでしょう? こっから距離にすると多分、二百キロくらいかね」
「めっちゃ離れてるじゃないですか……」
見たいと言ったのは自分だが、そこまで遠いところだとは思っていなかった八束は肩を落とした。
「いいよ、日帰りできるよ。こんな機会もめったにないでしょう? 観光客は黙って行きたいところ行けばいいんです。あとこれは憶測ですけど、あの子がこっちに来るのに君を誘ったの、いろいろ思うこともあったんだろうけど、君と遊んであげたかったっていうのも大きいんだろうし」
「へ?」
グラハムの言葉に、八束は目を丸くした。
「あの子、前に君とあまり遊んであげられなくて申し訳ないみたいな事言っていたからさ。だから今、君がどっか行きたいって言うなら、そりゃあの子は喜んでお付き合いしてくれますよ。でも君の口から、そういう言葉が出ると予想していたのか想定外だったのか、それは私にはわからないけどね。でも君が庭師かぁ。高いところ手が届く? 脚立必須?」
「脚立は必須でしょうね……」
少々頬が引きつったが、その苛立ちはケーキと一緒に飲み込んでやる事にした。
「でも、まだ完全に決めたわけじゃないんですよ。それに、もしそうなるとしても、長畑さんのところに押しかけるつもりはないです」
「え、なんで?」
「あの人、優しいからいろいろ教えてくれますけど、本音で言えば多分、黙々と一人で仕事したいタイプだと思いますから。今後やりたい事もたくさんあるみたいだし、素人同然の俺がいたって、今は邪魔になるだけです」
「ふぅん。で、余所に就職するあてはあるのかな?」
「……ないです」
うなだれながら正直に呟けば、グラハムは楽しそうに笑っていた。
「まぁ、君が本気なら、あの子も相談乗ってくれますよ。そうなると遠距離恋愛必須って事になるかもしれないけど、君その点は平気なの?」
「それは、わからないですけど……」
今は自転車で数十分程度の距離だし、週の半分以上は顔を合わせている状況だ。自分がもし遠くに就職するような事があれば、遠距離になるのだろうな、と思った事がないわけではない。嫉妬深い自分にそんな事ができるのだろうか、と考えると不安もあった。
「でも離れたくないからって俺が何もしなかったら、一生情けないままなんじゃないかなって思うし」
「ふぅん。だってさ、永智君」
「それもいいんじゃない? かわいい子には旅をさせろと言う事だし」
長畑が、新たに淹れた茶を片手に戻ってきた。
「僕がどうこう言う問題じゃないよ。それは自分で決める事」
「ふーん。可愛がっているわりには、君そういうところは冷たいよねぇ」
グラハムは頬杖をついて、半目で長畑を見た。
「冷たい?」
ティーポットをテーブルの上に置いて、長畑は八束の隣に腰かけ、こちらを見る。
「僕、冷たいかな」
「いえ」
八束は慌てて首を振った。多少突き放されていると思わない事もなかったが、冷たいとは思っていない。彼に悪気がない事くらいわかっている。
「だって、君がいなくなるわけじゃないからね。これで、『他に相手がいるんでそっち行きます』って話だったら別だけど。多分、僕冷静じゃいられないと思う」
「俺そこまで器用な事できませんから……」
長畑の氷のような笑顔が怖かったので、思わずカップを持つ手が震えた。
「でも、大人だねぇ君は。私だったらそんなに素直に旅立てとは言えないわ」
グラハムが感心したような声で言いながら、長畑見た。
「同じ轍を踏みたくないんだよ、僕は」
「あ、なんか今胸が痛かったんですけど、気のせいかな」
「気のせい気のせい。あ、カップ空いてるよ。お茶どうですか」
「うん、貰うー」
大人たちは互いに意味深な笑顔を浮かべながら、お茶を飲んでいた。