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薔薇色の道

16 百点満点の態度ではなく


(……なんか、変な夢を見ているなぁ俺)
それは散々考えている将来の目標の事ではなくて、今見えている光景の事である。
八束は今、どこかの国の砂漠のような場所にいた。
三百六十度、どこを見渡しても同じ。
地平線が永遠と続いているような、広大な砂地だ。
(砂漠なんか見たことないのになぁ、俺)
八束は内心ため息をつきながら、足元を見た。細かい砂が靴の中まで入りこんでいて、じゃりじゃりとした不快感がある。そこだけは、妙にリアルな感覚だった。
これが、今見ている夢だ、とはわかっていた。
今は旅行中で、昨日も寝た余所様の家のベッド。自分の部屋の潰れたマットレスよりもよっぽど寝心地が良いその場所に、昨晩も潜り込んだ事を覚えている。
寝つきの良さには自信があった。快適な眠りの中にいるはずなのに、今目の前に広がるのは、何故か砂漠。
(夢って、なんかときどきとんでもなくハチャメチャな設定だよな)
そのとんでもなさが、今のこの光景を「夢だ」と自覚させた。八束は内心ため息をつく。
(これはあれか。どこ行けばいいのかわからないって言う、心理的な……)
己の、不安に思っている部分。
そういった深層心理的な部分にもろに影響を受けているのだろう。八束はそう、冷静に受け止めていた。同時に情けないとも思った。
迷走しているという自覚はあったが、改めてこんな光景でそれを自覚させられると、これが夢だとわかっていても落ち込んでしまう。
そう考えられるほど頭の中は冷静だったのだが、夢はしつこく、冷めてくれない。
夢の中の砂漠は、空気が非常に乾燥していた。喉が渇き、喉の奥が張り付きそうになってくる。
自分の体がどんどん乾いてくるのがわかる。どことなく息苦しい。
夢のはずなのにその感覚はリアルで、このままでは乾いて死んでしまうという恐怖心が、じわじわと生まれてきた。
── このままここにいたら、死ぬ。
そう足を一歩踏み出してみるのだが、やはりどこへ行けばいいのか、どこへ行けば助かるのかがわからなかった。周囲は全て同じ光景で、地面のさらさらとした細かい砂は、風によってすぐに足跡を消してしまう。自分がどの方向から来たのかもわからなくなってしまう。
誰かいないのかと思って目を凝らすのだが、人影も何も見当たらない。植物すら生えていない。
(助けてくれる人なんか、いないよな。こんなところに)
いたら逆に怖い。
いるとするなら、それは自分と同じ遭難者じゃないのか── そう、思った時だった。
目が覚めたのは。

「……」

周囲に、砂なんてなかった。
八束の体は簀巻きのようにシーツにくるまっている。
目をこすりながら、ぼんやりと薄暗く見える室内を見渡す。やはり砂漠に突然ワープという非科学的な事は何もなく、八束は見覚えのある寝室にいた。
暑かったのか、背中には嫌な汗をかいており、喉も乾いていた。この渇きだけは本物だったらしい。
時計を見ると、朝の四時を過ぎたばかりだ。
カーテンの隙間からは少しずつ外が白んでいるのがわかる。朝は近いのだが、随分と中途半端な時間に目が覚めてしまった。台所で何か飲み物を拝借して、もう少し寝ようかと半身を起こしたときだった。
隣のベッドに寝ているはずの、長畑の姿がない事に気付いた。
「……?」
「あれ?」と思い、八束はもう一度時計を見る。まだ半分夢の中に浸かっている思考が、少しずつはっきりしてくる。
隣のベッドは、シーツも乱れなく整えられていた。
昨晩の記憶をたどってみる。
「なんか疲れたので先に寝ます」と、誰よりも早く寝室に入ったのは八束だった。
その後は一人、薄暗い部屋のベッドでうとうとしていたが、恐らくすぐに寝てしまったのだろう。長畑が部屋に入って来た記憶がない。だが、後で部屋に入ってくるであろう長畑の為につけていた小さな照明は消えていた。消した覚えはないので、やはり彼が消したのだろうか? と八束は首を捻る。
不審に思いつつもベッドの中で彼が戻るのを待っていたのだが、長畑が戻ってくる気配はまるでなかった。
(俺が寝ている間に、どっか出かけた?)
だがこんな時間だ。
昼寝しているこちらを放置して、というならまだわかる。今は夜中を通り越して明け方なので、さすがにどこの店も開いていないだろう。
気になってくると二度寝どころではなくなってしまった。
もぞりと身を起こし、ベッドから抜け出す。
ドアノブに手をかけ、静かに寝室の扉を開けると、探していた人間は、案外近くに居た。
リビングのソファの端に腰かけ、小さな明かりだけで一人本を読んでいる。
「長畑さん」
声を押さえながら、呼びかけてみた。八束の呼びかけに、長畑は視線を上げる。
「どうしたの?」
「いや」
「どうしたの?」はこちらの台詞だと思いながら、八束は彼の傍まで歩み寄った。
「たまたま目が覚めたから……何してるんですか? 早起きし過ぎでしょう。寝てないんですか?」
「いや、寝ていたけど、あんまり寝れないから起きたんだよ。まだ早いから、君はまだ寝てな」
「あー……寝たいんですけど」
八束も、妙に頭が冴えてしまっていた。冷蔵庫まで歩き、グラスにミネラルウォーターを注ぐと、グラス片手に長畑の隣に腰かけた。
「何時くらいから起きてるんですか?」
「三時過ぎくらいかな」
長畑は本から視線をそらさずに言う。
「それ、ほとんど寝てないじゃないですか」
「そうなんだけどね。元々、眠りが浅いと言うか、あまり寝られないので。いつもの事だから。君は気にせず寝ていていいよ」
「……不眠症?」
「そこまで大げさなものじゃない」
八束の言葉に、長畑は苦笑を浮かべた。
「ただ、無理に寝ようとしたら逆に寝れなくてストレス溜まるからね。そんなときは、もう諦めて起きてる。昨日はよく寝たらから、大丈夫だよ」
そう言えば、この男は昨日記憶をすっ飛ばす勢いで寝ていたわけだが、「久しぶりによく寝れました」とも言っていた。
「お酒飲んだら寝れるんじゃないですか?」
「昔はそれをやっていたけど、体壊すと思って止めたの。それ飲んだら、君はもうちょっと寝なさいね」
「……」
はい、とは言わなかった。頷きもしなかった。
言葉は柔らかかったが、放っておいてくれ、とも言わんばかりだったので、八束は何となく腹が立ってきた。長畑にこんな感情を持つことはあまりないのだが、そう受け取ってしまうというのは心がささくれ立っている証拠なのかもしれない。
この男が、一人の時間を愛しているような部分がある男だとはわかっているし、こちらに対して非常に優しいというのもわかっている。だが邪魔なら邪魔と言ってほしいし、それならそれで割り切れる。
ただ、今ばかりは、彼の人当たりの良い模範的な態度に煩わしく思ってしまった。
グラスをテーブルの上に置くと、八束は足をソファの上にあげる。
長畑の体を背もたれにするかたちで、寄りかかってみた。
「……重い?」
「君は軽いから、平気」
「邪魔ですか?」
「まぁ、いいよ」
小さく笑われた。邪魔は邪魔らしいのだが、この男は八束を追い払うことを諦めたらしい。
グラハムの姿はないので、彼は普通に自室で寝ているのだろう。時間的にあまり大きな声で話すのは気が引けたので、八束はしばらく黙っていた。長畑も話しかけてはこなかった。
(この人、あまり俺に注文をつけない)
束縛することもしないし、八束が何を言っても何をしても、基本は淡々と受け入れてくれる。文句も言わない。
放任主義だな、と思った。
八束の母親もそうだが、母親と恋人のそれは、また異なるものだと思う。
きっと八束が、これからいろいろな決意を伝えたとしても、長畑は昨日のように「好きにしなさい」としか言わないのかもしれない。
長畑には自分の決意を巡って、近しい人間と揉めた経験があるだけに、余計にそうなのだろう。以前も進路の相談をしたとき「自分の存在抜きに決めてほしい」と言っていた。
自分がいる事で、八束の可能性を狭めたくないから、とも。
(百点満点の答え、なんだろうな)
それで背を押される人間もいるだろうし、奮起する人間もいるだろう。
だが、八束はそんな前向きな気持ちにならなかった。そう言ってくれたことが有難いとは思っているのだが、正直な気持ちとしては、あの夢のような、出口のない砂漠を彷徨う気持ちに拍車がかかった。好きにしなさいと背を押されたところで、結局八束は、路頭に迷っているのだ。
(もっと親身になってくれると思ってた)
それも、八束が勝手に思っただけの事だ。長畑に悪気なんてないのだろうし、自分の感情は一切排除して、八束の意思にまかせてくれているのだともわかっている。
その信頼は嬉しい。
だが同じ道に進みたいのだと言った事に対しては、もっと何か、言葉があるのではないかと思っていた。だから拍子抜けというか、落胆したのだ。
八束が今後どうなっても、地元から離れる事があっても、「いなくなるわけじゃないから平気」と、この男は言った。
八束の気持ちが自分から離れる事はないと、この男は思っている。
そう信じてくれている。
(でも俺は、そこまで達観なんてできない)
物足りないのだ。
反対してくれたって良かった。離れるなんて駄目だとか、そういった事を言ってくれても良かった。そんな言葉があれば、多少は安心できたのだ。
だがそれを言えば、この男は「覚悟が足りない」と言うのかもしれない。そりゃそうだ、と八束も思う。
この男と自分では、人生経験の質が違う。甘やかされているこちらとは違い、この男は折れたら負けだと言わんばかりに、己を奮い立たせて生きて来た男だ。
(きっと甘いって、いつも思われてるんだろうな)
長畑の体温を背に感じながら、思う。
「甘い」と切って捨てられてもおかしくないだろうに、それをしないのは、この男が優しいからなのだ。
(それとも、対等じゃないからか)
彼のような大人が、社会経験もないような子供に「甘い」と説教をしたところで、どうしようもない事なのだ。結局、自分で体験してみなければ気付けない。だからこの男は、ノーリードでこちらを野に放とうとしているのか。
いろいろ考えてみたが、わからなくなってきた。
ただ一つわかるのは、今この男に漠然とした、煮え切らない不満を感じている、という事だけだった。
「寒くない?」
そのとき、背中越しに声をかけられた。
「……寒くはないです。むしろちょっと、暑い」
「君は体温高いからね。暑いなら離れればいいのに」
「嫌です」
即答すれば、長畑が後ろで柔らかく笑う気配がする。
(優しいんだよな)
こんな男なのに不満を持っている自分が罰当たりだと、八束は思う。
だがそんな男の本質は、とても嫉妬深くて重くて、茨のように絡みつきこちらが怪我をするような「何か」だ。
長畑がそういうものを隠し持っているという事は、八束にもわかっている。彼自身がそれを見せたがらないというのにも気づいている。
この男は、そういった己の面を完全に制御しているのだ。ときどき、一瞬垣間見せるそれに、八束はただ、背筋を震わせるだけだった。
──綺麗な面だけを、好きになったのか?
(違う)
──優しい言葉だけを期待しているのか?
(それも違う)
八束は内心、自問自答しながら首を横に振った。
綺麗な花かと思ったそれは、沢山の鋭い棘を持っていた。だがあえて、それを知って飛び込んだ。怪我をしてもいい覚悟はあったはずだった。
この男が優しいから、八束が怪我をしないように気遣ってくれていただけの事だ。
八束は、手を伸ばす。
長畑の中にある文庫本を掴む。
突然横から伸びてきた手に、長畑は声を荒げる事もなく、静かに視線をこちらに寄こした。
相手の視線からは、怒りも何も、感情が読み取れなかった。
笑顔の仮面を捨てたこの男の表情は、正直怖い。だが竦んでいては今までと同じだと、八束は必死に自分を奮い立たせた。
「……こっち、見てください」
「見てるよ」
「まだ足りない。もっとこっち見て」
八束の言葉に、長畑は本を閉じると、テーブルの上に置いた。
「なに?」
長畑の発した言葉は短く、落ち着いていた。色素の薄い瞳が、少々喧嘩腰になってしまっている八束を眺めるように見ている。喧嘩を売られている理由を考えているのかもしれない。
八束は手汗をかいている手を伸ばし、長畑の頭を挟むように手を添えると、迷いなく彼の薄い唇に口づけた。
誘うように唇を舐めると、長畑は抵抗しなかった。あっさりと、こちらの侵入を許した。
むしろ慣れないこちらからのを行為を楽しんでいるかのように、舌をからめてくる。
「んっ……」
溢れた唾液が、口の端を伝う。
歯をなぞられ、啄まれ、八束はどうしていいのかわからなくなった。自分から仕掛けたくせに、見えない底まで引きずり込まれそうな感覚があった。
背を撫でられるたびに、腰の奥からぞわぞわとした感覚が疼いてくる。
息ができない。
「っ……!」
苦しくなった八束は勢いをつけて、長畑を引きはがした。
舌がじんじんと傷んだ。息を切らしながら長畑を見れば、彼は非常に「楽しそう」な表情を浮かべて、自身の唇を舐めた。薄暗い中で唾液に光る唇が、その表情が、非常に艶めかしく感じた。
「こんな事、誰に教えてもらったの?」
「……他にいるわけがないじゃないですか」
口の端に垂れた唾液を手で拭い、八束は目の前の男を睨むように見る。
落ち着いて言ったつもりだったが、心臓はばくばくと脈打っている。
目の前の男の瞳。
いつもは知性的な色を持つ瞳に、今は欲情のようなものが見え隠れしている。久しぶりに見た、長畑の「男」の顔だ。
間違いなく、八束が火をつけてしまったものだった。
八束は、背筋がぞくぞくとするのを感じる。だが彼の素が垣間見える表情に、少しだけ歓喜のようなものも感じていた。
──あの子、君の前では猫かぶってるもの。
初対面の頃、グラハムがそう言っていたのを思い出す。
あの男は長畑の事であれば何でも知っている。きっと今も、自分よりずっとこの男の事を知っているはずだ。以前は嫉妬のような悔しさを感じていた。
だが今は、自分もそれに近いところにいるはずだ。少なくとも、一年前よりは。
「何か、言いたい事がある?」
伸びてきた指に、頬を撫でられる。
「君は、こういうとき物言いたげな顔をしているから、すぐわかる」
「……百点満点じゃないあなたが見てみたかったんです」
八束は、目の前の男に顔を近付けるようにして言った。
「俺のわがままですけど」