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薔薇色の道

18 趣味人を相手にするという事


「そう言えば君らさぁ、明け方になんかバタバタやってなかった?」
朝っぱらからの車の運転を快く引き受けてくれたグラハムは、ハンドルを握りながら後部座席の八束に声をかけた。
「え」
突然会話を振られた八束は、一瞬固まる。
「えっと、その、いろいろありまして……」
「うん。ちょっとテンション上がっただけだよ」
口ごもる八束に対し、助手席に乗る長畑は爽やかに告げた。グラハムはしばらく黙った後、ルームミラー越しに苦虫を噛み潰したような顔で八束を見る。
「あ、そう……まぁいいけどさ。大体どんなテンションだったかは八束君の顔見てりゃわかりますし」
「……でも、何もなかったです!」
「強調しなくてよろしい」
「あ、はい……」
八束は大人しく頷いて、窓の外を眺めた。
明け方に起きてしまったので、少々眠い。
朝早くからグラハムの家を出て、ロンドンを抜け田舎道を車で走っているのは、昨日八束が「イギリスで有名なバラの栽培場を見たい」と言ったからだ。
明け方にいろいろあったが、昨日の予定通り車はウルヴァーハンプトンという町に向かっている。
長畑は日本に帰る直前まで、そこのとある農場で働いていたという。
農場と言っても、広大な敷地を持つバラの育種農園だ。自社ブランドのバラで作られた庭園もあるそうで、そこは一般用に開放されているらしい。
「あの、なんで辞めちゃったんですか?」
前に座る長畑に、八束は恐る恐る尋ねた。
以前イギリスの農園で働いていた、とは聞いていたが、詳しくは聞いていなかった。彼はその筋ではかなり有名な育種家の元で働いていたらしいのだ。
言ってくれないので、全く知らなかった。
「なんか勿体ないとか、俺は思っちゃいますけど」
「まぁ、いずれ日本に帰る気だったしね」
八束の質問に、長畑は苦笑を返した。
「好みが合わなかったんだよ」
「好み?」
八束が首を傾げると、長畑は頷いた。
「うん。花の好みね。その人自体は良くしてくれたし、今でもとても尊敬してる。でも、うまく言えないけど、規模が大きくなってブランドの地位が安定してきてから、あまり冒険しなくなってきたんだよ。同じような交配で、同じような花を作るようになってきた。どれも綺麗なんだけど、なんか物足りなくてね。もっといろいろ試した方が絶対面白いのにって……まぁ個人だから言える、勝手な事だよ。向こうには向こうのイメージもあるだろうから、僕がどうこう言うことじゃないんだけど」
「へぇ……」
「でも、冒険大事だと思うけどね、私なんかは」
ハンドルを握るグラハムが、ちらりとこちらを見た。
「私もさ、昔担当した建物と似たようなものを作ってくれって言われる事が多々あるけど、正直つまんないもんね。クライアントの希望とかもあるから、嫌って言えないときもあるけど」
「そういうものですか?」
「人それぞれだろうけど、私はそう。頭こねくり返して、いろいろ新しい事を考えるのが楽しいんだよ」
グラハムは元気よく、けらけらと笑う。
「で、八束君。夜中に人の家で、どんな感じにテンションが上がったのか教えてほしいんだけど」
「顔見たらわかるとか言ってたじゃないですか!」
「結局言わすのかよ!」と八束は思わず叫んでしまった。
「だって。一人ぼっちにされると腹が立つんだもん」
「……混ぜてあげればよかった?」
横目で、長畑がちらりと冷えた視線をグラハムに送る。
「いや、混じるのは正直勘弁ですけど……あぁもう! サーシャ連れて来ればよかった!」
グラハムは少々イライラしたように、ハンドルを叩いた。
サーシャも一応誘ったらしいが、「昨日は生き恥をさらしたので、今日は家で寝る」と言われたらしい。
「三人ってのが良くないよ! 誰かがぼっちになるのが確定じゃない! しかもそれ多分私だし!」
「いい歳こいて子供みたいな事言わないでよ……残りの時間は、ちゃんと孝行しますから。行きたいようにしたいようにすればいいよ。帰るまで付き合うから」
長畑の言葉に、グラハムが黙る。
「……その投げやりっぽいところは気にくわないけど、嬉しいからそうする」
「そうして」
(鎮火早いなぁ……)
前に座る大人二人のやり取りを、八束は若干呆れつつ眺めた。
お互いの性格を知り尽くしているのだろう。彼らも歳が離れているが、信頼関係がきちんとあるのだな、と感じられて少し羨ましく思った。
言いたい事を言いまくるグラハムを宥めるのが、年下である長畑、というのが自分たちの関係とは異なるのだが。
(俺はいつも宥めてもらってる側だもんなぁ)
その立場が変わる事なんて、恐らくないだろう。そう思いながら、八束は窓の外に視線を移した。
片側一車線の道路。
周囲の景色は、どんどんのどかなものへと変わりつつある。
(やっぱり、こういう景色の方が落ち着くな)
育った町も、市街地以外は寂れた田舎町だ。田園も多い。ロンドンは華やかで都会的な場所だったが、やはりこういった景色を見ている方が、八束としては落ち着いた。
そんなどこか落ち着く景色を眺めながら、八束は夜の事を思いだしていた。


あの後、長畑は「もう寝なさい」と、八束を案外あっさりと解放してくれた。
だが自分のベッドに戻ってシーツに包まってみても、全く眠気がやってこなかった。
腹や胸をまさぐられた感触を思い出すと、ぞわぞわとした何とも言えない感覚がこみ上げてきて、寝るどころではない。
心臓はどきどきと脈打つし、顔も熱があるかのように火照って、熱い。
結局そのまま、朝まで一睡もできなかった。
長畑は結局、寝室には戻ってこなかった。八束も眠れなかったので長畑の事は気になっていたが、再度リビングに行って顔を見る勇気もなかった。
なので、扉一枚隔てた部屋で、シーツを頭からかぶって丸まっていた。
朝に起きて、長畑とどんな顔をして話をすればいいのだろうと少し不安になったが、彼は何事もなかったかのような、穏やかな顔で挨拶をしてきた。それを見て、少し緊張していた八束は思わず脱力してしまった。

あの、毒気すら感じる様な色気はどこにいったのだろう。
普段、どこに隠しているのだろう?

八束は朝食のパンを噛みしめながら、隣に座る長畑の顔を思わずじろじろと観察してしまったが、どこにもそんな残り香を感じる事はできなかった。自分の年上の恋人は、恐ろしいくらいにオンオフ切り替え派のようだ。
だが八束は、久々に長畑のそんな表情を見られた事に、少し安堵していた。
彼のどろどろした黒い何かは、変わらず自分にしっかりと巻きついているらしい。
離してくれる気も、毛頭ないらしい。
その事に安心したのだ。
それに安堵を感じる自分というのも、どうかというのはわかっている。
(……俺って、ドMなんだろうか)
それとも、惚れた弱みと言うべきか。
八束は内心、頭を抱えた。
突き放されたような感覚が辛くて、長畑の事を疑っているわけではなかったのだが、彼が持っている自分への気持ちというものを実感したかった。 だからあんな、自分でもよくわからない絡み方をしたのだろう。
だが、彼の愛情を試すような事はもうしたくないし、自分が不安だからと言って八つ当たりしていたら話にならない。
(もうあんな事しない)
この男は自分がどんな道を選ぼうとも、背を押してくれようとしている。
春先にそう言われた通り、彼はそのスタンスを変えていない。自分だけがぶれて、うろうろと同じところを回っている。
(この人にあまり、心配かけないようにしないと)
大人にならなければ──そう思ってやってきた割に、自分は本当に子供のままだ。
改めて自分に言い聞かせながら、八束は明け方の長畑の言葉を思いだす。

──君に、良からぬ事を言いそうな気がする。

これは自衛だ、とも言っていた。
その言葉の意味を、朝がくるまでずっと考えていた。
彼は傷つきたくないし、こちらを傷つけたいわけでもないのだろう。だからあくまで、感情的にならないように理性的に対応していたのだろう、と思った。
あの男の性格的に、そういった心情を吐露するのは苦手な事だとわかっているのに、己の事ばかりで相手の事を気遣えない自分が嫌になる。
(きっと、いろいろ言いたい事もしたい事も我慢させているんだろうな)
そう考えると、首筋がちくりと痛んだ。
昨日、長畑に歯を立てられた場所だ。
「……」
八束は思わず、首を手で押さえる。
朝に鏡を見たとき跡は残っていなかったが、彼の歯型は、しっかりと己の中に刻まれた気がした。


「うわぁ……なんか、すごく広い」
目的の農場に着いたのは、昼前の事だった。八束は思わず声を漏らしてしまった。
周囲は見わたす限り、延々と畑が広がっている。町から離れたこの場所には民家もなく、農園の管理している建物しか見当たらない。この畑には野菜ではなくバラが植えられていると考えると、不思議な気持ちになった。
会社の建物の側には直営のイングリッシュガーデンがあり、しゃれたレンガの小道やトンネルのようなバラの樹のアーチなど、緑で溢れている。
バラ満開の季節は終わっているので花はちらほらとしか見えなかったが、バラ以外の季節の花が可憐に花をつけていた。品よく、落ち着いた雰囲気の場所だ。 春先や秋は観光客も大勢いるらしいのだが、今はほとんど人がいない。まるで貸切のような状態である。
「懐かしいなぁ。あまり変わってない」
庭を見て回る長畑は懐かしそうに、周囲の様子を見渡して指を指した。バラの茂みに隠れて、はるか遠くに畑が見える。
「あっちが出荷用の苗を育てている畑で、向こうのちょっと隠れているところの畑は、新品種選抜中の畑ね。あの中から、新しい品種が生まれるかもしれないし、出ないかもしれない」
「じゃあ長畑さんも仕入れている輸入苗とかは、あそこの畑から掘り出されてくるんですか?」
土も落とされ、根と枝だけになったバラの苗を、八束も何度も見た事があった。こんな状態でも枯れないのか、という事が驚きだった。
「そうだね。ここからの直送だったらそうなる」
「へぇ……」
八束は感心したような声を出した。
普段、仕事の手伝いで何気なく受け取った苗や、長畑の庭で育つバラも、ここが故郷だったものもあるのだろう。
一言にバラと言ってもいろいろな種類があり作出者がいて、世に出る品種は数々の競争を勝ち抜いた、選ばれしもの──そう考えると、感慨深い。
「あっちの畑の方は見れないんですか?」
「あっちは企業秘密もあるし、一般人は店舗とここまで」
「そっか……」
八束は軽く息を吐いて、広大な敷地を見渡した。
品よく仕立てられた庭園。
満開のときにはさまざまな香りが漂い、大小様々な花たちが咲き誇るのだろう。
その光景は想像できた。
長畑の庭で、その光景は何度も見ている。彼の庭はここと比べればシンプルだが、他の草木と調和して緑にあふれ、そこだけ別の空間にいるような、非現実的な気持ちにさせてくれる。
「……食べ物を作っているわけではないからね」
あちこちに植えられているバラの樹を観察していると、後ろにいた長畑から声をかけられた。突然の事に、何のことかと怪訝な顔で振り向くと、彼は少しだけ、真面目な顔をしていた。
「野菜とは違うから、人にとって必ずしも、必要なものではないんだよ。何か大変な事が起こったら、皆花どころじゃないってなるだろうし」
「……でも、綺麗だなとか、見て和んだりとかはできますよ」
「そうだね」
八束がそう言うと、長畑は表情を緩めて笑った。
「でもまず生活の基盤があって、花を楽しんだりするのはそれからの事だから。結局こういう仕事は、人の趣味の延長の上に成り立つんだろうって、僕は思う。本当に好きな人たちを相手にするんだから、プロって言うのは、その人たち以上にそれを愛して技量がなければ、なってはいけないものだと思うんだよね」
「……はい」
八束が神妙な面持ちで頷けば、長畑は笑った。
「でも僕も、ふらふら進路を決めたような奴だから、偉そうなことは言えないけど」
「俺よりは行動力があると思いますけど」
「そう? 君は結構、思い切った事ができるタイプだと思うけどね」
「うーん……」
長い返事をしながら首を傾げると、グラハムに背中を小突かれた。
「便秘の犬みたいな声出してるんじゃないよ、君は」
(この人は便秘の犬の鳴き声を聞いた事があるのだろうか……)
そんな事を思いながら、ぶらぶらと歩いているグラハムに視線を向ける。
「……すみません。もしかして、全然興味ないところに連れて行ってほしいとか俺言いました?」
恐る恐る問えば、グラハムは意外そうな表情でこちらを見た。
「いや? 私は綺麗なもの好きだし。花もこういう場所も、愛でる心くらいありますよ。ただね、育てるのは私、壊滅的に才能がないので見る専」
「あぁ……まぁそういう人いますし」
現に、昔の八束がそうだった。
小学校のときの朝顔も枯らしたし、理科の授業で植えたヘチマは、興味がなく見に行かない間に消滅していた。
その頃は、本当に植物に対して興味がなかった。成長して、こんなアルバイトをやっているとは夢にも思わなかったし、進路に絡んでくるとも思わなかった。
心境の変化がいつあったかと言えば、初めて長畑のところで、満開のバラを見たときだろう。
その時初めて、まじまじと「花ってきれいなんだなぁ」と感動したのだ。
(でも育てる面で言えば、俺は長畑さんより全然素質がない)
それは、自分でもわかっている。
元を辿れば、八束もグラハムと同じレベルだったのだ。
今は多少素人に毛が生えた程度に知識も育て方もわかったが、知識があっただけで植物がうまく育つなら、誰だって苦労はしない。
八束は以前母の日用に、長畑のところからバラの鉢を一鉢買い、母親に贈った事がある。
母親は喜んでくれた。
だが八束の母は、植物は好きなのだが愛でるだけで面倒なんてまるでみない人間なので、結局水やりなどの世話は八束がやる事となった。
八束は「二度と鉢植えなんて贈らない」と誓った。
しかしバラを一から面倒を見るのは初めてで、教わっているようにやっているつもりなのだが、やはり長畑のようにうまく育てる事ができない。
後で聞いたが、八束が見た目で選んだそのバラは長畑曰く「ちょっと難しい子」だったらしい。そのバラなりの水のやり方や、剪定の仕方を再度教えてもらってからは多少持ち直しつつあるが、品種によっての育て方の差というのが、八束にはやはりよくわからない。長畑は「樹を見ながら調整していたらわかるよ」と笑うのだが、どうにもそれがつかめないのだ。
(センスって、やっぱりあるよなぁ)
経験も差も勿論大きいのだろうが、長畑はどちらかと言えば几帳面で一つの事を一人で突き詰めていく研究者タイプだ。
八束はそうではない。
与えられた仕事を黙々とこなすのは好きだが、長畑とのそれとは、何かが違う。
(駄目だ。またなんか、ぐるぐるしてきた)
これでは駄目だ、と頭を振る。
何をしたいのか、将来何になりたいのかなんて、小学生でも考える事だ。
今の自分が考えなければならないのは、もっと具体的な事だ。
あの男のようになりたい、と思っている。
努力すれば多分、この業界で生きる事は不可能ではないはず、と思っていた。
(でも、今のままじゃこの人には一生勝てない気がする)
八束は少し離れたところで、グラハムと話している長畑の姿を見つめた。
長畑に勝ちたいわけではない。そんな意識があって「同じ道に進みたい」と言ったわけではない。
花好きだし、この男に対する憧れがあったから。
──本当に好きな人たちを相手にするんだから。
考えていると、ふと、先ほどの長畑の言葉が脳裏に浮かんだ。
(そりゃあそうだ)
熱くなっていた頭が少し、冷静になってくる。

長畑が好きなだけか。
本当にバラが好きなのか。

自分では公私混同じゃない、と思って告げたのだが、改めて考えるほどに自信がなくなっていく。
その区別も曖昧になっている自分に、彼がそんな事を言うのは当たり前だ。
(もうちょっと考えないと駄目だな)
長畑も、もう少しゆっくり考えろ、と言っていた。
頑張るとかではなくて、もっと具体的な事を決めて行かなければ──。
「……八束君。八束君」
「え」
庭園にあるベンチに座り、ぼんやりとしていた八束は、目の前に立ったグラハムから声をかけられているのに気付かなかった。慌てて見上げると、グラハムは不審げに眉を寄せ、こちらを見下ろしている。
「さっきから呼んでるのに。どうしたの?」
「あ、いえ。すみません。ちょっと考え事してて……長畑さんは?」
周囲を見てみるのだが、長畑の姿が見えない。
「君がぼんやりしている間に、元同僚とやらにとっ捕まりまして、話してくるってどっか行っちゃったよ、もう」
「え……そうなんですか?」
全く気が付かなかった。
グラハムが若干不機嫌そうなのは、それが原因だったようだ。ため息をつきながら、彼はは隣に腰かけてきた。
「全然楽しくなさそうね、君。自分が来たいって言ったのに」
「……そんな事ないですよ。感動はしているんですが、考える事がなんか多くて」
「ふぅん。なんかもう考えるの、止めちゃえばいいのに」
「無茶言いますね」
「だって、君どうせ同じところをぐるぐるしてるんだもん。無駄」
「そうはっきり言われると……返す言葉がないです」
八束は苦笑いで返した。その通り過ぎて、怒る気にもならない。
「……グラハムさん」
「ん?」
「長畑さんが大学辞めて、ここで働くって言い出した時、どんな気分でした?」
「どんなって」
グラハムは小さく唸った。
「あ、そう、くらいの気分だよ。だってあの子、全部事後報告なんだもん。大学辞めます、もう行ってません、今もう働いてます、なんだからさ、何か言う隙も与えてくれないよね。ちょっと待てとは思ったけど、聞きゃしないし」
「……それも大変のような」
 何となく想像ができてしまって、八束は苦笑した。
「わかってくれる? もうね、人を頼る事を知らないものだから、一人でどんどん決めちゃう。私は何のためにいるんだろうって、いっつも思っていましたよ」
グラハムは珍しく苦々しい弱音のような事を言うと、ベンチにもたれた。
八束もつられて、ベンチの背に深く身を預け、空を見上げてみた。
空は青く、広い。
どこまでものどかで、さらりとした風が通り抜けていくのが気持ち良い。
「……多分、迷惑かけたくなかったんじゃないのかな、と思いますよ」
今なら、八束もその気持ちは痛いほどにわかった。