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薔薇色の道

20 熱の勢いって怖い


考えすぎたのかただ単に疲れのせいか、その晩から熱が出た。
高熱ではないのだが、だらだらと微熱だけが朝になっても下がらない。
(……まさか、知恵熱ってやつか?)
リビングのソファにぐんにゃりと横たわりながら、八束はぼんやりと考えた。知恵熱なんて高尚なもの、今まで出した記憶がない。
「七度二分かぁ、微妙な熱だね。病院行ってみる?」
長畑が隣で、たった今測ったばかりの体温計を見ながら、少々心配げな視線をこちらに向けてくる。
「いや、大丈夫です。多分そこまで大げさなやつじゃないんで……」
熱の影響か、頭はずきずきと痛むが、腹も痛くなければ咳も出ないし、鼻水も出ない。実際のところ、風邪の引きはじめか何かなのだろう。
「君さ、あまり病院行きたがらないよね」
「病院、嫌いです……」
あの独特の空間は妙に緊張するし、あまり好んで行きたい場所ではない。医者という人種を前にすると、妙に緊張してしまうのだ。最後に病院に行ったのは、ちょうど一年前に長畑の家で、グラスの欠片を踏んづけたときだ。あれ以来行っていない。
「だったら、今日は一日大人しくしていなさいね。一応薬は飲んどきなよ。あんまりひどい様だったら、嫌がっても連れて行くけど」
長畑はそう言って、薬の小箱を八束に手渡してきた。見慣れた日本の風邪薬だ。片仮名ででかでかと書かれたメジャーな商品名を見ていると、八束は何だか無性に感慨深くなってきた。たった数日しか離れていないというのに、もう日本語が懐かしい。
「さすがって言うかなんて言うか、準備良いですね」
薬なんて持ってこなかった。母親は持って行けと言っていたような気がするが、準備に手間取っているうちに忘れていた。八束は思わず、尊敬のまなざしで見つめてしまう。そんな八束を見て、長畑は肩をすくめた。
「旅行中に体調崩すなんてよくある事だし。君も初海外だったから、どんなものかなと思って、一通り持ってきたから」
「あぁ……」
こうなりそうな事は、彼の予想の範囲内だったらしい。なんて隙のない男なのだろうと、八束はソファに突っ伏したまま感謝した。
「でも、ごめんね。結構いろいろと強行軍だったでしょう? あちこち行ったし、無理させたのかも」
「いえ。それは全然」
頭を横に振った拍子に、ずきずきと頭痛が増した。眉を寄せながら、八束は周囲を見渡す。
「……そういえば、グラハムさんは?」
賑やかな男の姿が、どこにもない。
「買い物行ってくるって。君がそろそろ、お米食べたがっているんじゃないかって。調子悪いときって、やっぱり慣れたもの食べたいでしょう?」
「あぁ、米……」
その言葉自体を聞いたのが、久々のような気がした。こちらに来てから「イギリスは飯マズ」との評判を覆し、おいしいものも沢山食べさせてもらったが、確かに白米は恋しい。
(そこまで、米が大好きってわけじゃなかったはずなんだけどなぁ)
それなのに今、白いご飯とみそ汁が無性に食べたい。少々ホームシック気味なのかもしれない。
慣れた人たちと一緒だし、英語がほとんど喋れなくても、言葉には不自由していない。自分はそんなノスタルジーなものとは無縁だと思っていたが、全く違う環境の異国にいると、やはりストレスというのは多少存在していたようだ。
いろいろ考え込んでしまった事も、負荷がかかったのだろう。
(長畑さんは、もっと大変だったんだろうな)
八束は彼が語ってくれた、幼少の頃の事を思い出す。
両親の仕事の都合で幼い頃に渡英したという彼は、家族の中で一人だけ、全く言葉もわからない状態で、この国に来たのだという。なかなか友達もできず空気にも馴染めず、だんだん苦しくなってきたのだと言っていたが、今なら何となく、その気持ちも理解できる。それを考えるとたった数日でダウンしてしまった自分が、非常に情けない奴に見えてきた。
「……長畑さんも、米食べたいとか思いますか?」
ブランケットを手に戻ってきた長畑を見上げると、彼は八束の言葉に目を丸くした。
「そりゃあまぁ。でも僕はこっちも長かったから、君ほどじゃないかもね。でも、漬物とかは食べたいな。帰ったら、一番に和食でも食べに行こうか」
笑いながら、長畑は八束の体にブランケットをかけた。
「しんどかったら、ベッドに行きなさいね。ソファが気に入っているみたいだけど」
「……」
八束は無言で、こっくりと頷いた。グラハムの家のソファは黒の革張りのもので、頬を擦り付けるように寝ていると、ひんやりとしていてとても気持ちが良かった。
「何か欲しいものとかある? 食べたいものとかあれば、買ってくるけど」
長畑の前でここまで体調を崩した事は初めてだったが、彼はこまめに面倒を見てくれる。申し訳ないと思ったが、有難くもあった。
「いるものとかはないんですけど……」
そう呟いて、八束は言葉を止めた。ふと、試してみたい事がある。普段の自分なら実行には移さなかったのだろうが、今はなんだか、熱のせいか思考が緩い。
「長畑さん、こっち座って」
ぼふ、とソファを軽く叩く。長畑は言われたまま、八束の頭の側に腰かけた。
「こう?」
「そのまま」
八束はもぞりと体を動かすと、長畑の太腿の上に頭を乗せてみた。
「……固っ」
その感触は思っていたのと、何かが違ったので思わず声が出た。あと枕にするには、少々高い。
「何をするのかと思ったら……。固いに決まってるじゃないの……」
長畑が呆れた様な表情を浮かべながら、こちらを見下ろしている。
「あのね、膝枕って言うのは、女の子がするから柔らかいの。男の足じゃ首疲れるだけだから、止めときなさい」
長畑は言いながら、近くにあったクッションを八束の頭の下に敷き直した。
「……経験者は語る、みたいな?」
「ご想像におまかせします」
見上げて尋ねてみたのだが、笑って誤魔化された。
いつもそうだ。この男は八束がどんなに尋ねても、昔の恋人の話など全くしてくれない。
(別に怒るつもりないし、ただ聞きたいだけなんだけど)
自分が知りたいから尋ねたのに、勝手に嫉妬して勝手に怒るのはただのアホのする事だと思う。そんなアホな事をするつもりは八束もないのだが、そう言えるのは今自分が冷静だからであって、聞いているうちにヒートアップする可能性はないとは言えなかった。興奮してくると、よくわからない事を口走る事がある。だから、言ってくれないのかもしれない。
この男は、八束の気質を非常によく掴んでいた。元々当たり障りのない言葉を選ぶタイプの男なのだが、こちらが泣こうが喚こうが我慢しようがイライラしていようが、うまい事まとめて宥めてくれるあたり、やはり大人なのだなと思わされる。毎度そんな事ばかりなので、いい加減恥ずかしくも感じていた。
(多分もう、こんなにゆっくりする時間って、当分ないんだろうな)
もうすぐ日本に帰る。
帰ったら、長畑はまた毎日仕事ばかりしているだろうし、八束も学校の事や自分の事でばたばたして、ゆっくり話をする時間というのも減ってくるのかもしれない。
(夏休みっていうのも、考えてみたら今年が最後だし)
学生最後の夏休みだ。海外に連れてきてもらうという、滅多にない体験をさせてもらったのは有難い。だがふと、長畑もこんなに仕事を離れたのは久しぶりの事なのではないだろうか、と思った。
「長畑さんは、ゆっくりできましたか? こっちに来て」
「僕?」
長畑は、ソファの上でブランケットに包まりながらごろごろしているこちらを、面白そうに眺めていた。
「休んだなーとは思うよ。ゆっくりし過ぎて、体が鈍ってきたかもしれない」
「俺は多少太ったかもしれません」
「あぁ、グラハムがすごく食べさせてくるから……多分、僕も体重増えてる」
視線を合わせて、笑った。
「来る前は、結構緊張していたんだけどね。僕もいろいろ考えすぎていたんだと思う。今は、帰ってきて良かったって思った」
「……なら、良かったです」
この男がそう思っているなら、それに越したことはない。いろいろと思い出したくない事も沢山あったのだろうが、そう言ってくれる言葉には偽りがないようだった。だから八束も、少し安心した。
「一緒に来てくれて、ありがとね」
「俺、食ってただけですよ」
お礼は言われたが、心底そう思うのでどんな顔をしていいのかわからない。結局この男が抱え込んでいた暗部に、八束は手が出せないままだった。だがそういったものに、この男は一定の線引きをして、一生抱えていく覚悟を決めているのだろう。表に出さず穏やかに笑えるこの男を強いとは思うが、同時に少し悲しくもあった。
「……今度はもっと早く俺に言って下さいね」
「ん?」
八束はソファの上で、ごろりと寝返りをうつ。
自分は、この男に比べれば全然しっかりしていない男だ。
将来の事も決められずにうだうだとしているし、体調は崩すし、甘やかされながら面倒も見てもらっている。パートナーと言うには、随分情けない存在のように思える。それでもこの男のためになるには、どうしたら良いのか。
「俺は多分かっこいい助言とかはできないですし、長畑さんも俺には言われたくないだろうし、頼りない奴かもしれないですけど、黙って聞く事くらいはできますから。だからあまり抱え込まないで、俺に言って下さい。長畑さんは、自分の中だけで処理している事が、多分多すぎます」
「君もそうだよ。ぐるぐる悩んで、どうしようもなくなるまで、僕に言ってこないじゃない」
長畑は苦笑していた。だがこちらを見る瞳は、とても優しかった。
「僕はね、結構重い奴なの。重くて嫉妬深くて、とても嫌な奴なの。感情の赴くままに君に絡んだら、嫌われそうだからしたくない」
「俺も面倒な奴ですよ。自己中だし。だから別にいいじゃないですか」
「そういう事じゃないんだけど……まぁいいか。君がそうしてほしいなら、頑張って言うようにしてみるけど……苦手なんだよねぇ、人に相談するのって」
「すぐに、じゃなくてもいいですから。五年とか十年とかかかってもいいし」
「ふぅん。君は五年も十年も、僕の近くにいてくれると?」
からかうように言われて、八束は眉を寄せた。
「俺はもっと、のつもりですけど。ガキの戯言だとか馬鹿にしないで下さいよ」
「いや、馬鹿にはしてないけど」
長畑が静かに、目を細めた。
「それさ、プロポーズのつもり?」
「…………」
問われて、八束は表情を強張らせて固まった。
──五年も十年も、それよりもっと長く、近くに居る。
(言われてみれば確かにそれっぽい……)
考えていると、みるみる頭が熱くなってきた。熱が上がっているような気がする。
「耳まで赤いんですけど。今熱測ったらえらい事になっていそうだね。ちょっと測らせて」
長畑が笑いながら体温計を取り出した。その笑い方が何だか怖い。八束はじわりじわりと、ソファの端に逃げる。
「いや、測らなくていいですよ! って言うか忘れて下さいすみません!」
「嫌。絶対忘れてあげない」
長畑の唇が、にんまりと弧を描く。
「僕もしたことないんだよね、プロポーズ。まさか君に先を越されるとは」
「……してたらしてたで俺困るんですけど……あぁ、えっとその」
もうどうにでもなれ、と思った。
八束はヤケクソ気味に身を起こすと、長畑の隣で正座して頭を下げた。
「あの、ずっと責任もってそばにいますので、よろしくお願いします」
「うん。僕は貰ったのだろうか、貰われたのだろうか……よくわかんないね」
「俺もよくわかんないです……」
熱の汗とは違う、別の汗が背中をだらだらと流れていた。
(俺、やっぱりパニくったら駄目だ……)
相変わらず脈絡のない事を言う。だがこればっかりは、訂正しようとも思わなかった。
(グラハムさんいないときで良かった……)
八束は、土下座するようにソファに頭を擦り付けながら思った。彼のいる前で「コレ」になっていたら、おそらく非常に良い笑顔で別室に連れ込まれて説教されたか、一生からかわれ続ける羽目になっただろう。
ちらりと視線を上げると、長畑は何だか楽しそうに笑っていた。
本気にしてくれたのか、楽しんでいるだけなのか、よくわからない。だが嫌ではなさそうだったので、八束は心から安堵した。