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薔薇色の道

21 孝行


ダラダラと続いていた微熱は、青くなったり赤くなったりしているうちに、引っ込んだ。久しぶりに食べさせてもらった米も効いたのかもしれない。
結局現地の病院に行く事もなく、旅行は最終日を迎えた。
八束は、ここ数日お世話になっていたベッドに寝転がりながら、窓の外が明るくなるのを見つめていた。眠れないわけではないのだが、何故か何度も目が覚めてしまうので、明け方には寝る事を諦めた。
隣のベッドで寝ているはずの男からも、何となく起きている気配を感じる。不眠気味と言っていたいつものそれ、なのだろう。
(あんな事言ってみたけど、あんまり何も変わらないんだな)
あれがプロポーズと言っていいのかわからない。昨日もあれから普通に夕食を食べて、だべって、眠気を感じて寝た。
興奮した勢いで飛び出した言葉だったが、もうちょっと世の中の別の恋人たちは、こういったときに盛り上がるのではないか? と思った。
(まぁ俺らっぽいって言えばそうだけど)
八束は内心苦笑した。実に、淡々とした付き合いをしている自分達らしい。八束は他の人間と付き合った事がないので、他の人たちであればどうなのか、という比較はできない。だが男相手だし歳も離れているし、そんなにムードある告白でもなかったので、そんなものなのだろう。逆に淡々と受け入れてくれたことは、きっとありがたい事なのだ。
──五年も十年も、それよりずっと長く。
言った言葉に偽りはないつもりだが、今更になってその重みを実感する。自分が春先にどうしているかもまだわからないのに、そんな先の事を語る自分を、長畑はどう思ったのだろう。浅はかだとか子供だとか思ったのかもしれない。だが少々意地の悪い顔で、忘れてあげない、とも言われた。
(この人を裏切れない)
言った事の重みを忘れないようにしなければ、と思った。
八束は自分の指を見つめてみる。
部屋の中に差し込む、朝日に照らされた自分の手。指は太く短く、爪も丸い。中途半端に伸びた爪の周辺は、甘皮が剥けている。手の甲は夏の間にすっかり日焼けしていて、浅黒い。
プロポーズまがいの事をした。責任は、とらねばならない。
(──指輪とか、買うべき?)
この男と付き合っていても、今までそんなものに興味もなかったし、重要性も感じていなかった。
もしかしてああいった類のものは、そういった気持ちを忘れない為に、覚悟の意味も込めて買うものなのかもしれない。
自分の目でいつも見える指にはめて、その誓いを思い出せるように。
そう考えると、少し気持ちが動く。
(でもどうなんだろう。陳腐って言うかありがちって言うか、お約束過ぎるんじゃないかなぁ……)
友人の佐々木は、彼女の誕生日に指輪をあげたらしいのだが、少々変わったところのあるしっかり者の彼女は「重い」と言い放ったらしい。それを聞いていたので、長畑にも同じことを思われたら嫌だなと思った。
そのとき、長畑が体を起こした、時刻を見ると六時ちょうど。眠れないまま、六時が来るのを待っていたようだ。
「……長畑さん」
控え目に声をかけると、彼は少し驚いた様子でこちらを見た。八束が起きているとは思っていなかったらしい。
「起きてたの? もう少し寝てなよ」
「いえ、俺も起きますけど……指輪とかいります?」
そう声をかけた瞬間、長畑は左腕にはめようとしていた腕時計を、ぼとりとシーツの上に落とした。そして何とも言い難い視線で、こちらを見る。
「朝っぱらから何その思考の飛び方……。脈絡なさすぎるんだけど……」
「あ、すみません。いろいろ考えていたので」
八束も慌てて身を起こし、ベッドの上に胡坐をかいた。こっちは相変わらずぐるぐる考えていたのだが、寝起きにそんな事を言ったのは突飛だったか、と少々反省する。
「……何て言うか、言った責任って言うか」
「あぁ」
視線を落としながら言う八束の言葉に、長畑は納得がいった様子で相槌をうち、笑った。
皆まで言わずとも、八束の言いたい事をある程度理解してくれるこの男は、普段鈍いくせに時折エスパーのような察しの良さを見せる。
「別にいい。普段つけないし」
「あぁ、まぁ、仕事の邪魔ですもんね……」
いつも枝だの剪定ばさみだのを持って仕事しているこの男は、非常に飾りっ気がない。普段着のときも、装飾品と言えるものは腕時計くらいしか身につけていなかった。
「でも、君が買いたいって言うなら、買って」
「え?」
予想外の言葉に八束が目を丸くしていると、長畑は真顔で頷いた。
「君、そういうの好きでしょう? 結構形にこだわりたがる」
 ──結構ロマンチストだよね。
過去に、そう言われた事を思い出す。
「……いや、そうかもしれないですけど……でもいらないって物をあげても」
「君がくれるなら大事にする」
あっさりとそう言い放たれて、八束は唾を飲み込んだ。
(そんな事言われたら、買うしかない……!)
だが、気になるのはお値段の事だ。指輪の相場なんてよく知らない。ピンからキリまであるとしても、そういったものは「給料三か月分相当」という話も聞く。
……そんなもの、長年バイト代をこつこつ貯めた貯金を使い切っても、まだ足りない。
脳内通帳と睨めっこしながら渋い顔をしていた八束を見て、長畑は声を出して笑った。
「すぐってわけじゃないよ。高校生相手にたかれないって言ったでしょう? 君が稼ぎだして、懐に余裕ができて、もし僕相手に浪費してもいいかなって思うときが来たら、でいいから。時間はたくさんあるわけだし」
「……デザインは?」
「君が気に入ったものでいいよ。あ、でも人刺せそうなやつとか殴るのに使えそうとか、そういうのはあんまり」
「それ指輪じゃないと思います……」
八束はため息をつきながら、隣のベッドまで移動して、長畑の手を取った。
節のある長い指。この男の手が、八束は好きだった。
「長畑さんは、ごてごてしていない方が絶対似合うと思う」
あまり自分のセンスを信用してはいない。だがこの男の、この手に似合うのは、きっとシンプルなものだ。
「君も欲しい?」
横から尋ねられて、八束は考えた。想像してみたのだが、今の自分の手にそんなものが光っているところが、全く想像できなかった。
「俺も、今はいいです。多分、俺が贈ろうって思えたときなら、今より、そういうのも似合う年頃になっているだろうし。そのときにねだります。長畑さんに選んでもらう」
「僕のセンスはグラハムに全否定されているからね。あんまり期待しないように」
「そんなにセンス悪くないですよ? 服とかそうだし、家の中も綺麗だし」
心底そう思いながら告げたのだが、長畑は苦笑いするだけだった。
「家の中綺麗は、ちょっと違うよ。物がないだけ」
長畑はそう言うと、腕まくりをしながらベッドを降りた。
「……何かするんですか?」
八束がそう尋ねると、長畑は振り向いてにっこりと笑う。
「最終日の孝行。空港行く前に、朝御飯でも作ろうかと思って。作っても、なかなか褒めてくれないんだけどね。文句が多くて」
そう言って、長畑は寝室を出て行った。
(……なんかあの人、凄くまるくなったなぁ)
ベッドの端に腰かけたまま、八束はそう思った。
もともと気が強い性格だという事は知っている。彼の事を、ただ人の良い、大人しい男だと思っている人間も多いが、それはまだ付き合いが足りないのだ。彼は案外面倒くさがりで、気に入らない事以外は人に合わせている事が多いだけだ。だから考えている事がわからないとか、そんな感想を持たれがちなのだろう。
だがこちらに来てから、彼の気の短い一面や弱さのような部分も、少し見えてきた。自分を良く知る男たちがいるという事に安心感があるのかもしれない。
八束は、長畑のそんな姿を見られた事が嬉しかった。そんな姿を見せてもいい相手に自分も認定されている事を知って、二重で嬉しかった。
「……俺も手伝お」
くしゃくしゃになっていた、自分のベッドのシーツを引っ張って整えると、八束は小走りで寝室を出た。

「なんかね、もう帰っちゃうとか思うとね、ご飯が全部しょっぱく感じるのね」
テーブルの上に並んだのは、典型的なイギリスの朝ごはんだ。目玉焼きと焼いたトマト、ベーコンにブラックプディング、煮豆。それらを、グラハムはどこかしょんぼりとしながら咀嚼している。
「あるもの焼いただけだから、不味いも美味いもないと思うけど、しょっぱい意外に感想ないわけ?」
そんなグラハムを、長畑は眉間に皺を寄せて見ていた。
「いやだって、君らが帰っちゃうのが寂しいんだもん……泣きたい。泣かないけど。泣いてないのにご飯しょっぱいとか何故」
「泣きたいのか泣きたくないのか、どっちかにしてよ。湿っぽいなぁ」
「ちょ……泣きたいに決まってるでしょう? でもいい歳して別れが寂しくて泣くとかみっともないし! そこんとこわかってよ!」
(すっごい気まずい……)
大人同士の不毛な会話に、八束は口を挟めず、黙々と食べ続けた。グラハムが本気で寂しがっているので、今自分がどんな口を挟んだところで、どれも安っぽい慰めのような気がしたからだ。
「また来るからさ」
「またっていつよ」
「そんなの今わかんないよ。僕だって仕事持ってるんだから、すぐには予定立たないって。そんなに遊んでばっかりもいられないし」
「ほう。私のところに来るのが遊びと申しますか」
「遊び意外に何かあった?」
「……もういい。土地買ってあげるから、こっちに帰って来なさいよ君」
「またその話なの? すごくループしているんだけど……」
長畑が非常にうんざりとした顔をしていた。先ほどから似たような話題で、同じところをぐるぐると回り続けている。
「だってさ! バラって言ったら本場はヨーロッパでしょうが! 天下取る気があるならわざわざ日本でやりたがる意味がわかんない!」
「いや、天下とかは別に……って言うかこの話題で互いにヒートアップして、余計な話になって君を殴る羽目になった事、忘れてないよね? あまり言いたくないんだけど」
「あ……やっぱり殴っちゃったんですか」
「やっぱりって何」
「いや、なんかそんな雰囲気してたんで……」
喧嘩した、とは聞いていたが、事の顛末をしっかりと八束が聞いたのは初めてだった。そんな気配は薄々感じていたのだが、長畑が人を殴るところがあまり想像できなかった。
「忘れてないよ。私のこんな気持ちは、君も離れて見守る立場になったらわかります。ごちそうさま」
グラハムはため息をついて、フォークを置いた。しょっぱいしょっぱいと言っていたが、何だかんだと言いながら完食している。
「あれはすっごく綺麗な右ストレートだったよ。あれ顔面に食らって、あぁこの子喧嘩できたんだーって嬉しくなった後、すごく凹んだ」
「殴られた事には怒らなかったんですね……」
「だって私が悪いの、自分でもわかってたし。この子も見た事がないような形相していたもの。君見たら多分泣くよ」
「この子相手にそこまでキレないと思うから大丈夫。怒る理由が見当たらないし」
「ふぅん……」
グラハムがどこか不服そうに、八束を睨んだ。視線が「この扱いの差ってどうよ?」と言っている。八束はその視線に気付かなかったふりをして、紅茶をすすった。
「──そうそう。その話題は不毛だからもういいんだけどさ、僕、三崎さんからお土産買ってきてって言われているんだよ」
「ほう?」
 長畑の言葉に、グラハムは機嫌の悪さを引っ込めて、片眉を上げた。
「君、彼女には散々お世話になっているんでしょう? たくさん買って帰ってあげなさいよ。私からもよろしくって言っておいて」
「うん、そのつもりなんだけど、これ空港で全部買えるかな?」
長畑は紙を一枚取り出して、グラハムに見せた。グラハムの眉間に、皺が寄る。
「えー……ちょっとこれ、漢字混じってて私わかんない。八束君読み上げてみて」
「あ、はい」
紙を渡され、八束はそのメモに視線を落とす。すっかりグラハムの日本語翻訳機になっている。そこには、三崎の尖がった手書き文字で、いくつかの文が箇条書きに並んでいた。
「缶の可愛い紅茶と、何て読むんだろ……多分海外のブランドコスメの名前だと思うんですが、その化粧品がいくつか。あとお菓子とポストカードと、アンティークっぽい雰囲気のブックカバー……三崎さん、凄く沢山お土産希望していたんですね……」
お土産をたくさん頼まれたとは聞いていたが、まさかここまで細かい指定があるとは思わなかった。
「うん。買って帰らないと僕は多分殺される。一週間近く留守を任せちゃったし」
「……彼女の希望は別にいいけどさ」
黙って聞いていたグラハムが頬杖をつきながら、半眼で長畑を睨んでいる。
「何で最終日のぎりぎりになってこういう事言い出すわけ君? 化粧品関係は私もあるのかわかんないよ! もうちょっと早く言ってくれたら下調べしたのに! ちょっと、食べたら早く準備して。お土産買いに行くよ。八束君もまだおうちへのお土産買ってないでしょう? 美味しい菓子でも持たせてあげるから! 菓子までまずいとか言われたら私国民代表して怒るからね!」
「あ、はい、すみません。ありがとうございます……」
グラハムの半ばやけくそめいた言葉に、八束はこくこくと頷くしかなかった。
(俺、一回もご飯まずいとか言ってないんだけどなぁ……)
そう思ったが、言ったところでどうにもならないので、八束は諦めて、噛んでいたものを飲み込んだ。

結局、お土産品の大部分は空港で買える事が判明した。
他の物はともかく化粧品の事はさっぱり、というグラハムは朝っぱらから電話でサーシャを叩き起こして尋ねたらしい。サーシャも第一声は「知るかボケ」だったらしいが、その後きちんと調べて、店名と空港のどこどこにある、という事まで連絡してくれていた。
寝起きが悪いだけで、良い人なんだろうなぁ、と八束は思う。
「全く、人に聞く前に自分で調べればいいのに……」
元々、空港に見送りに来る予定ではあったらしいのだが、予定より早く叩き起こされたサーシャは、未だ不機嫌だった。
「だってこういうの、私より君のが早いもん」
グラハムはしれっとした顔で、目つきの悪いサーシャの視線を受け流していた。
「ごめんねサーシャ。僕、こういうの疎いから」
紙袋を両手に抱えた長畑の申し訳なさそうな顔に、サーシャは慌てて首を横に振った。
「いいんですよ。でも、お役に立てたなら良かったです」
「……君もさぁ、私にも、もうちょっと優しくしてくれたらいいのにね」
「は? 今更?」
「あの、ありがとうございました! お土産まで買ってもらって」
空気が険悪になりそうだったので、八束は慌てて言葉を挟んだ。
結局、自分用のお土産代までグラハムに出してもらった。というか、支払う隙を与えてくれなかった。
「あぁ、いいのいいの。君は、この子を連れて来てくれるという偉大な役目を果たしてくれたわけだし。また私もそっち行くからさ、遊んでね」
「はい」
「来るのはいいけど、前もって連絡してよ……僕だって準備くらいしておきたいんだから」
「へぇ。連絡したら歓迎してくれる?」
「そりゃあ、まぁしますよ。丁重に」
長畑の言葉を聞き終えると、グラハムがサーシャの両肩をがっしりと掴んだ。
「聞いた? この子ってば超優しいんだけど」
「って言うか、今まで連絡なしに行ってたんですか、あんた……」
サーシャはその事実を今まで知らなかったらしい。心底呆れた顔をしていた。
「……じゃあ、そろそろ。搭乗口行っておかないといけないから」
長畑が腕時計を見て言った。飛行機の時間は、刻々と近付いている。
「永智」
そのときグラハムが、長畑の名を呼んだ。
「いつでも、いくらでも、帰ってきていいんだからね」
長畑は目を丸くして、視線を上げた。先ほどまでのループしていた会話とは違い、その言い方は落ち着きのあるものだった。
グラハムは穏やかに微笑みながら、告げる。
「君の帰るところはちゃんとこっちにもあるから、日本で頑張るのに疲れたら、いつでも帰って来てよ。迷惑だなんて思わないし、恥ずかしい事でもない。私は君と会うのを、いつも楽しみにしてるよ。その気持ちはずっと昔から変わってない。君は、気に入らないかもしれないけどね」
長畑は黙って、グラハムの話を聞いていた。
何かを言いたかったようでわずかに唇が動いたのが見えたが、やがて何も言わず、グラハムの前まで来ると、自分から手を伸ばし、グラハムの背を笑みを浮かべて、抱いた。
「……ありがとう」
そう小さく呟いた声だけが、聞こえた。