HOMEHOME CLAPCLAP

薔薇色の道

22 それは飲んであげられない


セミの鳴き声がうるさいくらいに響き、日差しが肌に突き刺さる夏の午後。
八束は霧島の家にいた。
イギリスから帰って一週間が経過し、土産も配り終わり、荷物の整理も終わった。
生活は何となく、落ち着きを取り戻しつつある。それ以降は相変わらずバイトをしたり、学校で夏期講習を受けたり、稀に友人と遊んだりといった普通の夏休みを送っている。夏休みというのが今年で最後、という感慨にひたる暇は、あまりなかった。
今日は、学校に顔を出した帰りだった。
午前中だけのちょっとした用事を済ませて帰ろうと外に出ると、炎天下の日差しは強烈だった。イギリスも夏なので暑さはあったが、日本ほど蒸し暑くはない。そのため帰って来てから、八束は日本の暑さにばて気味になっていた。八束があまりに暑い暑いと言っていたからなのか、同じく登校していた霧島が「暇なら涼んでいけば」と家に誘ってくれた。

「お前んちって、相変わらず豪華だよなぁ」
感嘆の声を漏らしながら、八束は霧島の後ろを歩いて立派な門をくぐった。
年季の入った日本庭園に、錦鯉が泳ぐ池。聞けば庭の方は定期的に専門の庭師が入り、手入れをしているらしい。家の中も成金のような下品さはなく、伝統的な日本家屋の格調の高さ、というものを感じる。
「ボロいだけだよ。戦後に建ったような家だし」
霧島は、振り返りもせずに言った。その言葉に、謙遜も何もない。恐らく本気でそう思っているのだろう。
(そんな時代から、こんな家ってのが凄ぇよ)
八束はそう思ったが、口には出さなかった。ボロいとは言うが建物はよく管理されており、年季は感じてもそんな風には見えない。
赤の絨毯が敷かれた廊下を歩いていると、中庭の隅にいくつか鉢植えが置かれていた。花は咲いていなかったが、何の植物か、見慣れていた八束はすぐにわかった。
「バラ……?」
「あぁ。あれはうちの母親の趣味。前に、お前のところのバイト先でお世話になっただろ?」
言われて、春先にそんな事があった事を思い出した。
「あれから母親が凝り始めて、ちょっと鉢数が増えた。長畑さんの事、母親も気に入ったみたいで、花関連で困った事あったらすぐ呼んでいる。すぐ来てくれるしね」
「あぁ……」
(もうあの人、天性のマダムキラーなんだな)
想像して、八束は苦い笑いを漏らした。あそこまで行くと、もはや才能である。だが順調に顧客を増やしつつあることは、良い事だと思った。

「はい」
霧島の部屋に入ると、彼はグラスに氷を浮かべた麦茶を持ってきて、八束の前のテーブルに置いた。礼を言って、口に運ぶ。冷たすぎるくらいに冷えた麦茶が喉を通り抜けて行くのが、心地よい。
「今日、誰もいないんだ。親父も兄貴も仕事だし、母親は習い事に行っている。だからのんびりしていい、んだけど……なんか今見て思ったけど、お前すごく焼けたな。黒い」
 霧島が自身の机の椅子に腰かけ、八束をまじまじと見てきた。その言葉に、八束は己の腕を見る。制服の半袖シャツから伸びた腕は、確かに黒い。焼けていない手のひらと比べると、焼け方がよくわかった。
「あー、そうかも。移動が自転車だし、外にいる事も多いからね。霧島は、全然焼けてないな。どこも行ってないの?」
「外出ないから。汗かくの嫌だし」
「あ、そう……」
どうやら夏のレジャーとは、全く無縁らしい。
「海とかも今まで、ほとんど行った事がないから。まぁ海で泳いだら絶対死ぬようなひ弱な子供だったし、夏の間は、今まで家の中か、避暑地でしのいだり」
「避暑地って……もしかして、別荘とかあるのか?」
「それらしきものは、一応」
霧島は真顔でこくりと頷いた。
「へぇ……凄いなぁ、やっぱそういうの持っている人って、世の中にいるんだな。初めて聞いた」
半分呆れた様な気持ちで、感心してしまった。全く世界が違う。こんな友人と付き合うのも、初めてだった。
「あんまり人には言わないようにしているから。こういう話したら、金持ち自慢とか調子乗ってるとか言われるし、嫌なんだよ」
「そうなの? 俺なんかは逆に、一般家庭でそういうの持ってるって都市伝説みたいに感じていたから、違う世界の事過ぎてへー、とかしか言えないけど」
「都市伝説ってなんだよ……」
霧島も苦笑いを浮かべた。
「そう言えば、霧島は俺とこんなにのんびりしていていいの? 勉強とか」
霧島が大学を受ける事にした、というのは数日前に聞いた。イギリス土産を渡したときに聞かされたのだが、正直八束は驚いてしまった。夏休み前はそんな気はないと言っていたし、霧島が悪いわけではないのだが、ついこの間まで進路が宙ぶらりんだった仲間に先を越されたような、そんな焦りが少し生まれてしまった。そんな八束の言いたい事がわかったのか、霧島は無言で頷く。
「予備校には行っているよ。週に三日ほど」
「三日って……俺が言うのもなんだけど、少なくない?」
「俺も少ないとは思う。俺も、もうちょっとみっちり通ってもいいかなって思ってたんだけど。あるじゃん、泊まりで夏休み強化合宿、みたいな。あれ申し込もうとしたら、親に全力で止められた。お前の体力じゃ無理、みたいな」
「……心配性なんだなぁ」
「心配性って言うか、過保護すぎ。なんか、あの人たちの中では俺は、未だにひ弱な子供のままなんだなぁって思った。まぁ仕方ないけどね。今までが今までだ」
霧島はため息交じりに笑った。
彼が幼少の頃、喘息もちで頻繁に入院するほど体が弱かった、というのは聞いている。両親はそんな彼の体を思いやり、小学生の時に親類のいる空気のきれいな田舎に転校させたのだが、そこで霧島は人間不信になるような体験をしてしまった、というのも以前聞いた。 霧島と初めて出会った時、今にも倒れそうな彼に八束は焦ってしまったわけだが、あれから特に体調が悪そうという様子はない。
霧島曰く、あのときは新学期のクラス替えで、知らない人達に囲まれ極度に緊張してしまい、そのストレスが引き金になったのか、久々に発作を出してしまったという事だった。今は元気なのだ、と彼は常々言っている。
「で、大学どこ受けるの?」
「地元の県立大学。偏差値そんなに高くないし、がつがつ勉強しなくても多分受かる」
「言い切れるお前が凄え」
「いや、担任がそう言っただけなんで……」
八束は座布団の上にあぐらをかいたまま、淡々とそんな事を語る友人を見た。霧島は主張こそ弱いが、体育以外の成績は常に上位に食い込んでいるような優等生だ。
「でもお前なら、もうちょっと上の学校も目指せそうなのにな。やっぱりスタートが遅かったから、とか?」
「それもあるけど、実家から通えるところっていうのが親の出した条件だったから。大学は行ってほしかったみたいだし、それ以外は好きにしていいって言われた」
「ふぅん」
「……兄貴のときとは、全然違うんだよね」
霧島の表情が、少し曇った。
「兄貴のときは、うちの親も結構いろいろ口出していた。頭良かったし、俺より全然心配ないような奴だったのに、上を上を求められて、結構あれこれね。期待されていたんだなって思う。俺はその点、死ななきゃいいみたいな扱いだったから、期待も何もなかったし。俺がこんなだったから、兄貴は必要以上求められたのかなって、ときどき申し訳なく思う」
「いやでもあの人、多分全然苦に思っていないタイプだと思うけどね……」
八束は霧島の兄の顔を思い浮かべた。態度も紳士的だし、知的で品もある。模範的な男だとは思うが、どうもそのノリについて行けないときがあり、八束は少し苦手にしている部分があった。しかし弟思いで優しい一面も持っており、我は強いが他人を傷つける事は好まない性格である事も知っている。そういった事もあって、嫌いでもない。
あの男は、自身で「自己顕示欲が強くて、目立ちたいタイプ」と言っていた。期待される事は苦ではなく、むしろ期待以上に応えて見せる事に快感を覚えるタイプではないのか、と八束は思った。
「ならいいんだけどね」
霧島はため息をついた。この弟が、兄に対してどんな感情を抱いているのか、それはよくわからない。
しかし兄の方は今の立場を強制されたわけではないし、自分で悩んで決めたのだと言っていた。だから霧島がこんな感情を持ち悩む事には首を横振るだろうが、今の霧島に何を言っても、その考えを改める事はないだろう。劣等感というものを、非常に強く持っているからだ。
「でも、英文科って言ってたよな? ちょっと意外だった。英語得意だからか?」
「テストではそこそこ点取れるけど、喋れって言われたら無理だよ。だから得意とは違うと思う」
「いや、俺も喋るのは全然できなかったけど……」
「じゃあイギリスでどうしてたの?」
「長畑さんがあっちにいた人だから英語わかるし、世話になっていた人も結構日本語喋れたから、俺のヤバい英語はあまり出さなくて良かったんだ」
「あぁそっか、この間来ていた人のところに泊まってたって言ってたもんね。……俺さ、英語勉強しようと思ったの、あの人の影響かも」
「え。グラハムさん?」
驚いて、思わず聞き返した。霧島は、こくりと頷いた。
「何て言うか、俺全然喋れなかったけど……前にも言ったと思うけど、あそこまで初対面の人と話せるのって、凄いなと思って」
「いや、あの人のアレは、なんかちょっと行き過ぎって言うか、別に真似しなくても平気って言うか……」
八束は言葉を濁した。彼のコミュニケーション能力はある意味尊敬するが、グラハムのように賑やかに喋る霧島、というのも全く想像ができなかった。
「俺も真似できるとは思ってないよ。でも、言葉に何か一つでも自信がついたら、多少世界が変わるのかなと思った。声小さいってよく言われるし、英語できたら役に立ちそうだし、いいかなと思って」
そこまで言って、霧島は照れくさくなったのか麦茶を一口飲んで、小さく笑った。
「俺卑屈だからさ。何かこれは得意だっていう、自信を持ちたいのかもしれない。自信がないから小さくなって、言いたい事も言えないんだ」
「それは俺も同じだけどな。自信とかあるわけじゃないし」
「そうかな? 俺は八束が羨ましいし、なんか毎日充実しているように見える」
「してるのかなぁ、充実……」
八束は笑いながら答えたが、内心考えてしまった。
自分が充実しているのか、していないのかはよくわからないが、今自分が特別困っている事と言えば将来の事くらいだ。友人関係にもトラブルはないし、家族も健康だし、好きな人はいるし、その人にはきちんと相手にしてもらっている。
特に不満もない。
だが「羨ましい」と言うのであれば、正直霧島の環境は羨ましかった。
急な進路変更が可能な頭も、家庭の余裕も十分にある。頼りになる兄もいて、容姿だって小奇麗で、育ちの良さを感じる。八束が勝っているところなど、体の丈夫さぐらいだ。お前はこんなに恵まれているじゃないか、と言ってやりたい。
だが口に出すとただの僻みのようだったし、霧島に対してそんな苛立ちがあるわけでも、傷つけたいわけでもなかったので、言わなかった。
霧島は、そういった部分を鼻にかけるような男ではなかった。むしろ自分が体調面で、周囲に迷惑をかける事が情けなくて悔しくて、甘やかされている事を恥じている。でもそれを周囲に言えず、両親に素直に感謝もできず、その事でまた自分を嫌悪しているような男だった。
「……多分、ない物ねだりってやつなんだろうけどね」
会話の間に困ったのか、霧島はテレビのリモコンを手に取り、テレビを点けた。映し出されたお昼の情報番組ではどこかの地方料理を取り上げており、女性レポーターの大げさで賑やかな声が響く。特に面白い物でもなかった。だが霧島はそれじっと、見つめていた。
「自信がついたら、言いたい事があるんだ」
テレビから視線を逸らさず、霧島はぽつりと告げた。
「言わなきゃ後悔するんだろうし、言っても多分後悔する。どちらにしろ後悔するんだけど、やっぱり俺は黙って飲み込んで墓場まで持って行けるほど、大きな男でもなくて」
「……」
霧島の言わんとしている事が、八束にはわかってしまった。霧島は困ったように笑いながら、八束を見る。
「そのときは誤魔化さないできちんと言うから、お前も聞いてくれたら、嬉しい」
「……うん」
 控え目に頷けば、霧島は困った顔のまま、視線を伏せた。
「相変わらず、俺なんかキモいよな。ごめん」
「そんな事はない」
八束は静かに、首を横に振った。照れくさいのか、霧島はしばらくこちらを見なかった。室内には外から聞こえるセミの鳴き声と、テレビの音だけが淡々と流れている。
人を好きなる気持ち、というのは八束も十分知っている。
もし長畑と会う前に、霧島と会ってそんな気持ちを向けられていたらどうだっただろう──と考えた。
しかし、彼と友人以上の関係になっている姿を、どうやっても想像することができなかった。
(俺、男が好きなんだろうか?)
考えてみたが、そうでもない気がした。ここ数年でいろいろな人と出会ったが、こんなに生々しくて毒々しい感情を抱くのは、あの男だけだ。
恋愛と言うのは、八束が思っていたものよりも甘ったるいものではなかった。少々人と違う恋愛だからそうなのかとも思うが、比べてみようにも、他に誰かを好きになった経験もなく、わからない。だがこれが自分の恋愛なので、人と少々違ってもしょうがないとは、思えるようになってきた。
長畑の隣にいる自分は、とても情けない姿ばかりさらしている。友人達といるときはそうでもないはずなのに、長畑の前ではいつも醜態をさらして、恥ずかしい思いをして、時折子供っぽい八つ当たりをしてみたりして、本当に酷い。余裕を持ってなどいられない。格好つける暇もなく、全力でしがみついているような状態だ。
苦しい事も多い。だが好きだ。近くに居たいし、誰にも譲る気はない。あの男の隣は、自分だけのものだ。
今でこそ恋人と言えるが、八束だって気持ちを伝えるか黙っておくか、非常に悩んだのだ。
最初は言わないつもりだった。こんな事を言ったら絶対に引かれるし、迷惑になるし、近くにいられなくなるかもしれない。だから自分の中でとどめておこうと思ったのに、ある日我慢できなくなった。半ば喧嘩腰になって思いをぶつけてしまった事を覚えている。
だから霧島の、言っても後悔するし言わなくても後悔する、という気持ちは痛いくらいにわかった。その気持ちの受け入れ先がないという事がどれだけ辛いのかも、わかっているつもりだった。
(でも駄目だ)
相手の痛みもわかったが、そこは引けない。
(もしこいつが、前みたいに誤魔化さないで俺に好きって言ってきたら)
──間違いなく、自分は断る。
そのとき、自分達の友人関係というのはどうなるのだろう?
八束は少し、憂鬱な気持ちになった。
友人を傷つけたいわけではない。でも、それを飲んであげる事は、できないのだ。