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薔薇色の道

23 夏バテと二学期


年々、夏休みというのを短く感じるようになってきた。
小学生の低学年の頃などは、あまりにも長い休みに途中で飽きたりしていたが、今ではそんな事が信じられない、と八束は思う。
今年の夏休みは特に短く感じた。やらなければならない事や、はじめて体験する事ばかりで、暇だと感じる暇も、高校最後の夏だと感傷に浸る暇もなかった。
数日前から二学期も始まり、特別感のない日常に戻った。八束も淡々と授業を受ける日々に戻ったが、イギリス旅行に行って戻って、今までと少々変わった事もある。
夏休み明けの、全国模試。
英語のリスニングテストが、いつもより点が良かった。しかも、学年のなかでもそれなりに良い順位をとってしまった。
いつも捨て教科としていた、英語で。
(耳が慣れたんだろうな、少し)
返却されたテスト用紙の、自分でも意外な点数を眺めながら、八束はそんな事を思った。
あの旅行で、おぼつかない己の英語を披露することはほとんどなかったが、どこにいても聞こえてくるのは英語ばかりだったし、旅行に備えてそれなりに日常会話を勉強していた。それが、多少実を結んだのかもしれない。
最初は、長畑の帰省にオマケ気分でくっ付いて行ったのだが、やはり自分にとっても良い経験をさせてもらったのだ。優しくしてもらったり怒られたり励まされたり、泣いたり噛まれたりしたのも、よい思い出と言えば、そうだ。
ただ、噛まれた事は、未だ思い出すたびに背筋がぞわぞわとする。
「……」
怖いのではない。
不快感からでもない。
何とも言えない、自分の知らない「ぞわぞわ」だ。
(いやまぁ、わかる。わかるけど、何と言うか)
八束は急に湧き上った羞恥心を誤魔化すように、荒々しくテスト用紙をカバンに突っ込む。
──あのときあそこが、人の家ではなかったら。
長畑は放してくれていただろうか。
自分は煽ったくせに逃げるという、情けない事をしていなかったのだろうか?
(……考えだしたらまた頭痛くなるから、止めるとして)
八束は息をつきながらカバンを背負い、ホームルームが終わったばかりでざわつく教室を出た。
あの旅行で自分が身を持って学んだこと事と言えば、いろいろぐだぐだと頭の中だけで考えていても、一向に前には進まないし、周囲に心配をかけてしまうという事だ。
逆に考えすぎて体調を悪くする有様だったし、臆病なのは生まれ持った性格だから仕方がないとしても、考えるだけ考えて右往左往して後が無くなったら、最終的には腹をくくって飛び込むしかないのだ、という事は悟った。
(考えてみれば、今まではできていたんだよな、それ)
多少、勢いに任せたところはあるが、長畑との関係もそうした思いきりから始まり、続いてきたように思う。昔の自分の方が、威勢が良かった。
それを思慮深く大人になったと言うのか、臆病に磨きがかかっただけと言うのかは、よくわからない。
ただあれだけ深刻に考えてしまったのは、自分が今の関係を崩したくないという思いがあったからだ、というのはわかっていた。
守りに入ると、本当にろくな事がない。


自転車置き場まで来ると、外はよい風が吹いていた。
日差しはきつく、熱を持ったアスファルトで膝下が熱い。しかし日陰で風さえ吹けば、案外涼しくも感じる。
今日はバイトの予定はなかったが、長畑のところに行こうと朝から決めていた。
あの男は、数日前からどうも暑さにバテ気味らしく、調子が良くない。
八束も日本に帰ってきてからしばらく、湿度の高さと暑さにまいっていたが、元々あの男は八束以上に暑さに弱いようだ。
(半分、寒い国の血が入ってるからとか?)
そう考えたが、長畑にそれを言えば、彼は「個人的なものじゃないの?」と否定するだろう。
しかし去年も一度体調を崩していたし、日本に帰ってから数年経つのに、未だに日本の夏が苦手らしい。仕事はしているが「そろそろ溶けるかもしれない……」と数日前、虚ろな顔で呟いているのを見た。
心配だったが、こちらも休み明けのテスト続きで、様子を見に行けなかった。テストそっちのけで行けば彼は怒るだろうから、終わったら速攻で様子を見に行こうと思っていた。
今日は金曜日だ。多少帰りが遅くなっても、学校に差し障りはない。
八束がどきどきしながら「今日行ってもいいですか?」とメールを打ったところ、すぐに「どうぞ」と、三文字だけの淡泊な返事が返って来た。
「相当やられてんなぁ、これ……」
八束は文面を見ながら、唸る。
長畑はあまり筆まめではないので、自分からは積極的にメールを送ってこないのだが、届いたメールにはいつも丁寧な返事をくれる男だ。どうやら今日は、長文を打つ元気もないらしい。
(ひとまず何か飲み物買って行って、冷蔵庫の中は後で覗かせてもらうとして、何もなかったら俺が何か買いに行って……)
そういう算段をしていたら、なんだか今の自分達はとても恋人っぽいじゃないか、という気分になってきた。
何となく顔がにやけたが、遊びに行くのではないのだ、と慌てて思い直す。
(アレだ。イギリスで看病させるような迷惑かけたから)
──そのお礼です。邪な気分ではないです。
自分に言い聞かせるように小声で呟いて、八束は学校を出た。

学校を出て少々買い物をして、山間のバラ園にたどり着いたのは、夕方の四時前だった。
この夏休み中の間に、実は合鍵を貰っている。
「引っ越す予定もないし、何かあったときの為に、君には一応渡しておくね」
そのときの長畑の言葉は、そんなそっけないものだったが、八束は思わず鍵を両手で持ったまま、固まってしまうくらい嬉しかった。
高校生の自分などに、そんな大事な物を渡してもいいのだ、と思われている事がたまらなかったのだが、今のところ使う機会はない。留守中に訪ねる様な用事もないし、長畑が不在でも三崎がいれば鍵は開いている。そんなわけで、その合鍵は自分の家の鍵と一緒に、大事に持っている。
風に揺れる木々のざわざわとした音を聞きながら、階段を上がり、緑あふれる庭を抜ける。人家の少ないこの辺りは、賑やかな学校周辺とは違い、静かだ。
玄関の引き戸の鍵は、いつもの通り開いていた。
「こんにちはー」
玄関を開けながら声をかけたが、家の中はしんとしており、返事がない。
(まさかまたぶっ倒れてるとかそんな事は……)
そう思った瞬間、居間の扉が開いた。
「あ、意外に早かったね。いらっしゃい」
長畑は案外に元気そうだった。だがさすがに夏用の作業着の上着を脱いで、珍しく半袖のTシャツ姿だった。
「……意外に元気そうで、良かったです」
八束は安堵しながら、ほっとした声を出した。
「うん。二、三日前はちょっと死んでたけど、今は平気。日中は、休み休み働く事にしたから」
「死んでたって……でも、それがいいですよ。暑いのまだ続くし、体壊しちゃ元も子もないし」
「だよねぇ。そろそろ自分が若くないなってのを痛感してる」
「だから、そういう年寄り発言止めてくださいよ……」
そのあたりの人間に怒られても知らんぞ、と思う。この男はまだ三十だ。まだこの手の発言をするには、少々若い。
会話をしながら、買ってきたペットボトルを冷蔵庫に入れようとドアを開けた瞬間、八束は冷蔵庫の中が、今まで見た事がないくらいにすっからかんな事に気付いた。
「ところで長畑さん……ちゃんと食べてました?」
八束は半眼で、睨むように振り返った。長畑は答えず、笑っていただけだった。
「食欲、あります?」
「今は多少」
(完全に夏バテしているじゃないか……)
八束は内心、ため息をついた。イギリスでグラハムに散々食べさせられて太った、とは言っていたが、この調子では速攻戻って今はむしろ体重はマイナス、ではないだろうか。
「俺なんか買ってきますね」
「いいよそんな、気遣わなくても。お米くらいあるし」
「だから、どうせ米しか食ってなかったんでしょう? 俺何か買ってきたら、一緒に晩飯食ってくれますか?」
「え……うん、まぁ」
詰め寄ると、長畑は曖昧に頷いた。
「じゃあ、いくらか出すよ」
「それぐらい大丈夫です。この間から金出してもらってばっかりで、なんか悪いですし」
「あれは、僕が出したわけじゃないんだから、いいじゃない」
「グラハムさんにも結構出してもらったけど、長畑さんにも出してもらってたじゃないですか、昼飯代とか……」
「一緒に来てって言ったのはこっちなんだから、君が気にすることじゃないんだよ」
「じゃあ今回は、俺が勝手に買ってくるって言ってるんだから、長畑さんは気にしなくていいです」
「君も頑固だねぇ」
長畑は苦笑した。
旅行での飛行機代やお土産代、その他もろもろはグラハムと長畑がほぼ負担してくれたので、八束は小銭程度しか使っていない。
そこまで面倒を見てもらったのは、非常にありがたい事だと感謝しているが、申し訳ないし情けなくて男のプライドは折れまくりなのである。
そう思う自分も、卑屈だとは思っているが。
「で、何が食べたいですか? 極力応えます」
「えー……素麺とか?」
「結局炭水化物ですか……って言うか好きですよね、麺類」
呆れる様に言いながら、八束は背負ってきたばかりのリュックを再度背負う。
「僕も行こうか?」
「休んでてくださいよ。どうせまた涼しくなったら、ごそごそするんでしょう?」
「まぁね、仕事も溜まってますし。……で、どうしたの今日。凄く優しいけど」
「好きな人が見るからにへろへろになってたら、何かしなきゃって気になるじゃないですか、普通。こっちはぴんぴんしているんですから」
「ふぅん。君はそういうところ、男前だよねぇ。なんか助けてもらってばっかりのような気がしてきた」
長畑は感心したように笑う。
「そんな事はないですけど……じゃあ、早めに戻りますから」
八束はそう言って、足早に部屋を出た。
(助けてもらってばっかりなのは、こっちだ)
好きだと伝えて早一年。世話になってばかりだから、こういうときくらい、自分だって頑張りたい。ここ最近、迷惑ばかりかけていたから、余計に。
(でも素麺かぁ。それだけじゃ、絶対栄養偏るなぁ)
トマトだとか卵だとか、何かトッピング食材も買うべきだろう。多分今までの経験から言って、ろくに食べていないだろうなぁとは思っていたのだが、嫌な方向に予感が的中してしまった。
「八束」
玄関で靴を履いていると、背中に声をかけられた。
「何なら、今日泊まる?」
「……」
しばし考えて、こっくりと頷いた。
「……君さ、照れると耳まで真っ赤になるよね。可愛い」
「ちょっと、見ないで下さいよそういうところ!」
八束は慌てて、両耳を手で押さえた。あれだけ旅行で一緒の部屋に泊まっていたくせに、いざこの家に泊まるとなると、未だに照れる。
もう何度も、泊まらせてもらった事はあるはずなのに。