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薔薇色の道

24 麺つゆがあればどうにでもなる


近場のスーパーで素麺と麺つゆ、少々の野菜と惣菜を買って帰ると、時刻は夕方の六時近くになっていた。
それでも九月の日は長い。外は明るいし、ちっとも涼しくなる様子もない。八束は汗だくになりながら、長畑の家まで帰宅した。家の中はエアコンが効いていて涼しかったが、西日が差しこむ台所は少々暑い。
「手伝おうか?」
垂れる額の汗をぬぐいながら、鍋に湯を沸かしていると、後ろから暇そうにしている長畑に声をかけられた。
「いいですよ。ゆっくりしていて下さい。今日は俺がやります」
別に手伝ってもらっても良かったのだが、後は野菜を切るくらいの事だし、この男と二人で台所に立つと、正直狭い。
「君、結構料理するんだね。手馴れているし。意外」
長畑は、台所のテーブルの上に置いていた事務用の書類を片付けながら言う。
「そんなに凄いのはできないですけどね。まぁ人並には」
煮立った湯に、素麺を入れながら、八束は答えた。
昔から母親が仕事で遅くなるときなどは、妹の分まで用意することもあった。とは言っても、もともと作ってある物を温めたり、見よう見まねで焼いたり煮たりしている程度なので、料理が上手いとは思っていない。
今時、全く料理ができない高校生、というのも珍しいのではないだろうか。
(あ、でも霧島はやばかったな)
菜箸で鍋の中をかき混ぜながら、八束は同級生の顔を思い出す。
彼はろくに包丁を握った事がないらしい。いつかの料理実習で切ったキュウリは、全て繋がっていた。火力も常に強火スタートなので、大抵何か焦がしていた。
彼は「中学生になるまでガスコンロの使い方がわからなかった」と言っていたので、直接自分が何かするでもなく、希望の物が出てくるような生活を送っていたのだろう。運転手も家政婦もいるような家なのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
素麺を茹でている間にトマトを切り、調味料を取り出すべく冷蔵庫を開ける。
「……マヨネーズないですね」
「マヨネーズ嫌いだから買ってない」
「あ、そうなんですか?」
意外な気持ちで、八束は冷蔵庫の扉を閉めた。この男がはっきりと好き嫌いを口にするとは珍しい。よっぽど嫌いなのだろう。切らしていると思い込んで、買ってこなくて良かったと思った。
「一人だと、嫌いな物って買わなくなるからね」
「それは確かに」
茹で上がった素麺をざるにとって、水で洗う。
この男は、自分の趣向や好き嫌いを自ら進んで喋る方ではないので、こうして未だに「あぁそうなんだ」と、思わされることが沢山ある。
「何で嫌いなんですか? マヨ嫌いって珍しいような」
「なんか臭いから」
「あぁ、そういう……」
「出されたら食べれるから、全然駄目なわけじゃないけどね。でもあまり嗅ぎたい匂いじゃない」
(臭いかなぁ、マヨネーズ……)
真顔で即答されて、八束は笑いながらも考えた。
好き嫌いというのは、他人には共感し辛い話題である。

素麺とトマトとキュウリ、その場で焼いた卵焼き、あと買ってきたお惣菜のから揚げ。
それらを台所のテーブルの上に並べて、席に着く。
「食欲なかった食えるものだけでもいいので、食べてください」
「いや、もう大丈夫だから。いただきます」
八束の対面に座った長畑は、手を合わせて言った。
「君がせっかく買い出しまで行って作ってくれたんだから、有難く頂く」
「作ったって言っても、茹でたり焼いたりした程度です。あとは麺つゆの力なので、よっぽどの事がない限りは不味くはないと思います」
「いやまぁ、万能だけどね、麺つゆ……」
言葉に詰まる長畑を眺めながら、八束も手を合わせた。
この家で、八束が料理をしたのは初めでだった。
飲み物のために湯を沸かすくらいの事はした事があるが、それだけだ。
個人的にここにいるときは、大抵お客様扱いされている。この男がそつなく何かを作ってくれる事もあれば、一緒に外に出る事もある。だが奢ってもらってばかりなので、少々申し訳ない。
(考えてみたら、俺この人に、本当に何もあげた事がないんだよな)
この男の去年の誕生日は、悲しい事に教えてさえもらえなかったので、八束は何もできなかった。
イギリスに行ったときは、指輪を買ってくれと冗談のように言われたが、それは相当先に予定している話だ。忘れてはいないが、今はどれだけ財布の底をはたいても、そんな金は出て来ないので無理な話である。
──今回が初めて、だ。
この男の希望に応えて、何かをした、というのは。
「……なにか、また難しい事考えてる?」
黙々と考え込んでいたら、長畑が少しだけ笑って、こちらを見ていた。
「君、近頃考え込むと眉間に皺が寄るよね。癖になっているんだろうけど」
「え?」
八束は箸を持ったまま、目を丸くした。
そう言われるまで自覚はなかった。だが最近、やけに顔の筋肉が疲れるとは思っていたので、そうなのかもしれない。
「いや、なんか、よく考えている事が丸わかりとか言われるから……そう見せたくなくて、強張るのかもしれないです。多分」
そうなのかどうかは、正直わからない。
だが「顔に出やすい」と言われがちで、そう言われる自分が何となく嫌で、無意識に抵抗を試みている可能性はある。意識してやっているわけではないので、八束にもよくわからない。
あくまで多分、だ。
そう答えると、長畑は楽しげに笑った。
「成程ね。最初不機嫌なのかなと思っていたけど、観察していたら、そうじゃないんだろうなぁって思ったから」
「……全然、不機嫌とかじゃないですけどね。俺は結構楽しんでます」
少々気まずい思いで、八束は視線を落とした。テーブルの上の麺つゆに、自分の顔が写りこんでいる。
自分がこの男をじっと観察している事があるように、長畑も八束の挙動を黙って観察している事があるらしい。そう思うと何となく恥ずかしくて、この男の顔が見辛い。
「君は、そのままでいいのに」
長畑の言葉に視線を上げると、彼は八束の作った不格好な卵焼きを箸でつまんでいるところだった。
「顔に出るって言っても、君の場合は恥ずかしいとか嬉しいとか、そんな感情がほとんどでしょう? 自分の機嫌が悪いときに人を邪険にするような、あからさまな態度を取るような人は良くないと思うけど、君の場合はそうじゃないんだから、いいじゃない。僕みたいに、何考えているかわからないって言われるよりは」
「……最近わかりますよ?」
八束が小声で呟くと、今度は長畑が目を丸くした。
「そう?」
「長畑さんが変わったのか、俺が慣れたのか知らないですけど、何となく。昔はわからなくて戸惑った事ありますけど、最近は」
「例えばどんな?」
「……笑ってる表情一つでも、本当はイラっとしているんだろうけど、怒るの面倒だから流しているんだろうなとか。凄い嬉しいんだけど、あえて平気な顔しているんだろうなとか」
「なんかそうやって聞くと、僕凄く嫌な奴みたいじゃない。……まぁ事実ですけど」
長畑は眉根を寄せて、黙り込んだ。身に覚えがあり過ぎるらしい。
この男と関わるようになって、一年と少し。
だんだんとこの男の印象も、最初と違ってきた。違っていたと言うか、本来の姿を知った、というのが正しいのだろう。
当初は長畑の事を、なんて品があって真面目で、優しく穏やかな男なのだろうと思っていたが、案外この男は頑固だし、少々意地悪だし、執着心も強い。 気も強く、危害を加えてくるような人間には容赦ないような一面もあるのだと知った。
ただ怒るのは体力を使うので嫌らしく、ある程度「はいはい」と流している事が多い。よっぽどの事がないと、本気では怒らない。感情を荒げるという事に関しては、どうしようもなく面倒くさがりなのだ。
以前、グラハムが「あの子、君の前では猫かぶっているから」と言った言葉の本質が、ようやくわかってきた気がする。
しかし、優しい人だと思っているのは変わらない。八束やその家族まで気遣ってくれているのは知っているし、こちらが嫌だと言った事は絶対にしないからだ。幻滅なんて、これっぽっちも抱いた事がない。
「確かにちょっと癖はあるんでしょうけど、俺はそういうところも含めて好きだから、いいです。長畑さんが完璧すぎて全方位にもててたら、俺の身が持たないですし」
きゅうりの浅漬けをぼりぼりと噛みしめながら言うと、長畑がわずかに、ため息のような息をもらした。
「君もそんな、可愛げのない事を言うようになってきたんだねぇ……君も十分癖はあるよ。僕は、そういう人たちにしか好かれないし」
「俺はともかく……グラハムさんとか、霧島のお兄さんとかですか?」
長畑は、黙って頷いた。
「でも、こんな僕だってわかって付き合ってくれている人たちには、感謝しないとね」
丁度食事を終えた長畑は「有難い事です」と言いながら、手を合わせて、まだきゅうりを咀嚼している八束を見た。
「ありがとね。初めて食べたけど、君の料理はとてもおいしかった」
邪気のない笑顔で心から感謝されると、八束は照れくささから言葉に詰まる。
「……全部麺つゆの力です」
「いや、だから……素麺以外もおいしかったってば。卵焼きとか。君の家は、味付け塩派なんだね。僕の家は凄く甘い味付けだったなって、今思い出した」
「今度作るときは、甘いのにしましょうか?」
「いや」
長畑は笑顔で首を横に振った。
「しょっぱい方が好きだから、これがいい」
「……じゃあ、巻くの練習しておきます」
これがいいなんて言われたら、たまらなかった。思わず表情が緩む。
次はこれ、今度はあれ──次々と先の話が当たり前のように出てくるのが嬉しい。適当に話を合わしているだけの会話ではない、というのもわかる。八束自身もそうだが、長畑もこの先ずっと自分といてくれる気なのだというのがわかるから、嬉しい。

──でもだからこそ、先の事はきちんと相談して決めたい。
好きにしろと言われても、この男抜きに、自分は決められないのだ。

「あの、長畑さん」
箸を置き、八束は改まった視線で告げた。
「この後……仕事溜まっているなら終わってからで良いですから、時間もらえますか?」
「それはいいけど。何なら、今からでもいいよ?」
「いや、俺は皿とか洗っていますから、どうぞやる事やってください。俺は多分、またぐだぐだした事言いそうなんで。本当に、終わってからでいいです」
八束が頑なに言うと、長畑は呆れたような顔で微笑した。
「わかったよ。僕は事務仕事しているから。片づけが終わったら、君はテレビでも見て、ゆっくりしていて。終わったら行く」
「はい」
互いに頷くと、二人同時に席を立つ。
数日ぶりに会ったから、言いたい事や話したい事は沢山あった。
言いたくないが、この男だから、相談しておきたい事もあった。