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薔薇色の道

25 嫌だと言えるわけがない


テレビを見ながら、八束は長畑の仕事が終わるのを静かに待っていた。
九月に突入した今、時期的に特番ばかりなのか、どのチャンネルにしても二時間番組ばかりだ。長畑は引き戸一枚隔てた台所のテーブルで事務作業をしているので、八束は邪魔にならないよう音量を極小にしながら、ソファに腰かけ、チャンネルを忙しなくあちこちに変えてみる。
やはり、落ち着かないのだ。
昼間にここで働きながら、二人きりになったところで何も思わないが、夜もふけてくると何となく違う緊張感がある。もう何度も泊まった事があるはずなのだが、それは当初から変わらない。人の家でくつろぐというのは、昔からあまり得意ではなかった。
あちこちチャンネルを変えていると、野球のナイター中継をやっていたので、そこに落ち着く。
場面は七回裏。
両チーム同点での、満塁ツーアウト、ツーストライクという、非常に面白い場面だった。
特に今応援しているチームはないが、野球は中学時代に熱心にやっていたこともあり、今も好きだった。
(なんかおっさんくさいけど、まぁいいか)
これでビールなんか持っていたら、完全におっさんって感じだ──そう思いながら、八束は手に持っていたペットボトルのコーラを口に含む。
小学生の頃、当時まだ生きていた父親に、ちょっぴりビールを飲まされた事があったが、全くおいしいと思わなかった。
苦くて酸っぱくて、炭酸が喉に痛くて、何が良くてこんなのを飲むのだと思ったきりだ。
炭酸については克服したが、おいしくなかったという思い出が強く、今も特別ビールを飲んでみたいとは思わない。コーラの方がまだいい。 そんな風にぼんやりしていると、突如ホームランが出た。
満塁ホームラン。
点数は一気に加点され、球場も実況も盛り上がっている。
(――人前であんなのができたら、気持ちいいだろうなぁ)
思わず、感嘆のような息が漏れた。
野球部時代、可もなく不可もなさ過ぎて、八束は目立たない部員だった。
腐らず三年、真面目に続けたが、ほぼ裏方に徹していた。華々しさとは無縁の野球部時代だった。
だがそんな中学時代の事を長畑に話したところ、彼は意外にも興味を持ったらしい。
長畑は海外暮らしが長かった事もあり、ほとんど野球を知らなかった。ポジションもピッチャーとキャッチャーと打つ人、くらいの残念な認識しかなかったらしいのだが、やってみたいと言うので一緒にバッティングセンターに行ってみたところ、周りを見てすぐコツを掴んだらしい。一緒にいて、嫌になるくらいよく打っていた。
八束はその時初めて、この男が案外良い運動神経をしているという事を知ったのだ。
(……この人、チートだ)
八束はそう呆れた。
「野球教えて」とは言われていたが、教えるまでもなくこつを掴んだ男に、少々腹が立つのを押さえられなかった。
自分の恋人は、随分と優秀らしい。周囲がはっと振り向くような器量の良さを持っている癖に、頭も良くて運動までできるとは、世の中はどれだけ不平等なのだと思ったが、こうまで見せつけられてしまうと仕方ない。
自分のような地味な人間は、地味なりにこつこつやるのが大事なのだ、と八束は自分を励ますしかなかった。
そんな数週間前の事を思い出していると、リビングの引き戸が開く。
「──ごめん、遅くなったね。あぁ、野球見てたの?」
長畑が顔を覗かせた。仕事が終わったらしい。
「はい。でも、全然待ってないですよ」
笑顔で答えつつ、八束は手に持っていたコーラのペットボトルをテーブルに置く。
押しかけたのはこちらだと思っていたから、待たされたとは全く思っていなかった。長畑が隣に腰かけるのを待って、八束は口を開く。
「いきなりなんですけど俺、来週面接受けに行ってきます」
まだホームランの余韻を引きずるテレビに視線を向けながら呟くと、長畑が隣でわずかに目を丸くしたのがわかった。
「あぁ、何か決めたの?」
「……一応。そこ、何て言うか、花屋なんですけどね」
八束は太腿の上で、指を組みながら告げる。
改めて言う気恥ずかしさがあった。
右往左往してしまった申し訳なさもあった。
だが、話が現実味を増すまで、この男には言わないでおこうと思っていたのだ。自分の優柔不断さは、自分が一番わかっていたからだ。
事の始まりは、イギリス旅行から帰ったばかりの、まだ夏休みだった頃。
学校に夏期講習を受けに来ていた八束は、帰りに担任の教師に呼び出された。
別に叱られたわけではない。
春先に進路希望を就職で提出していたくせに、何も動きがないので、担任の教師は心配して声をかけてくれたのだ。
――求人票の中にやりたい職がないし、どうしたらいいのかわからないから。
夏休みで、人もまばらの職員室。決まらない理由を、八束は渋々そう答えた。
元々通う高校は普通科の進学校なので、教師も生徒の就職にそこまで力は入れていない。学校に来ている求人自体も少なかった。
通常であれば話はそこで終わるのだろうが、担任は八束が奨学金を借りている事を知っていたし、家庭事情からアルバイトをしている事も知っていた。
八束は目立つ生徒でも、特別成績優秀なわけでもなかったが、その真面目さだけは評価されていたらしい。
逆に「じゃあ、どういう職ならやりたいのか」と聞かれたので、断片的に「園芸関係」「人と話せる系」などと伝えてみたところ、教師はつてで、二件ほど求人を取って来てくれた。
一件は、全く園芸は関係なかったが、県内の老舗乾物会社の正社員募集。条件面はとてもよく、高卒にしては給与も良かった。
もう一件が、その花屋。
車で三十分ほどの距離で、ホテルに隣接しており、ブライダルやパーティ―用の花を主に扱う、少々大きな店舗との事だった。ただこちらは契約社員からのスタートで、という条件付きだった。
八束が「園芸関係」と言った為、教師は苦労したらしい。
高卒でそんな業種に就きたければ、農業系の高校にでも行った方が良かった、と教師は愚痴を言っていた。しかし中学生当時、自分が今こんな事になっているとはつゆほども思わなかったのだから、仕方ない。最初からそんな希望があったなら、少々通う距離が遠くなってもそちらを選んでいたと八束も思う。
そんな、意外と人脈を持つ教師が奨めたのは、もちろん乾物屋の方だったが、八束が選んだのは花屋の方だった。
「──乾物屋も良かったんですけど、こっちの方が今までやった事生かせそうだったし、やっぱり花関係やりたかったし、いろんな人と話せそうだったし」
八束は、苦笑しながら言う。
乾物屋にいる自分、というのは全く想像できなかった。でもここに来る以前の自分であれば、喜んでそちらに行っていたかもしれないと思う。
「長畑さんと同じ方向に行きたいと思ったけど、俺には育てる才能ってあんまりないし、サーシャさんにも言われました。向き不向きあるから、やりたい方向の中で、自分の適性を生かせるものを選んだ方がいいって。俺、人見知りとかあまりないですし、人と話すのも結構好きだし。花屋忙しいよって言われたけど、忙しいのも好きだし……」
これは、数少ないチャンスだと思った。
教師が自分の為に、わざわざ動いてくれたというのも有難かったし、これを逃せば次はないと思った。
しかし八束はつい、長畑の顔色を窺うように見てしまう。
「……言い訳でしょうか」
「なんで? 自分で考えて決めたのなら、いいじゃない」
 長畑は優しく笑っていた。あまりにも優しく肯定されたので、八束は恥ずかしさから俯く。
「いやその、まだ面接これからだし、受かってないから全然、偉そうな事は何も言えないんですけどね」
腿の上で、落ち着きなく手を開いたり閉じたりしながら、八束は早口で喋った。
それでもこの男に、知ってほしかったのだ。
自分だって、口ばっかりではないのだという事。
きちんと動いているのだという事。
考えてばかりの自分から変わらなければと、思った事。
「面接受けて、やっぱり落ちるかもしれませんし、その時はまた探します。家から通えて、やりたい要素がある仕事。何となく、方向性はわかってきたし」
「あぁ、やっぱり実家から通うんだ?」
「出てもいいかなと思ったんですけど、やっぱり妹まだ小さいし、何かあったとき、母親と女二人じゃ心配だから……。でも、二人は別に、俺いらなくてもいいって、思っているかもしれないですけどね」
自分で言いながら、想像して少々落ち込んだ。
家では母親と妹の仲が良く結託しており、よく一緒に出掛けたりしている中で、男一人よく除け者にされている。それを寂しいという時期はとうに過ぎたのだが、自分がいてもいなくても二人は特に困らないのでは、と思うと悲しい。頼もしいが、何となく八束家唯一の男として、悲しい。
「そんな事ないよ。君の家の人達は二人ともしっかりしているから、そう感じるだけだよ。男手必要になるときもあるでしょう?」
「開かない瓶の蓋を、開けるときくらいですけどね」
「……まぁ、役に立っているからいいじゃない」
長畑が、言葉に困りながらも励ましてくれるのが有難かった。そんな顔を見ながら、八束は視線を伏せる。
「……あと、長畑さんを置いては行けませんから」
八束の言葉に、一瞬沈黙が生まれた。
「別に、僕の事は気にしなくていいんだよ?」
「俺が無理なんです」
八束は首を横に振る。
「俺の方が実際は世話焼いてもらっているから、自惚れだとか調子に乗っているとか思うなら、謝ります。でも、何かあったら、すぐに来られる様な場所にいたいんです」
そう口に出す事に、迷いもあった。
この男は「自分に囚われずに決めてほしい」と言っていた。だがそうはできなかった自分を、この男は軽蔑するだろうか──そう考えると、長畑の顔を見る事ができなかった。
「今日みたいに、なんか具合悪そうだったら駆けつけたいし、きつい思いしているときに、一人になんてさせたくない。何かあったら俺に言ってねって言ったけど、やっぱり長畑さんあんまり言ってくれないから、それがわかる位置にいなきゃいけない。うちの家族も大事ですけど、あなたも同じくらい大事だから」
だから、そうすると決めたのだ。
遠くには行かない。
冒険できない奴、目標のために、何も捨てる事ができない奴──そう言われても、それは仕方ないだろう。
でも、この男と自分は違う。
どうしたいのか考えて、一番大事なものは何か考えて、悩んで決めた事だ。
顔を赤くしながら言い切った八束を見て、長畑は小さくため息をつくと、隣にこしかける八束の頭をゆっくりと抱き込んだ。
「……僕は、君にそこまで心配されるほど、落ちぶれちゃいない」
「すみません」
そこは、素直に謝る。反論する気もなかった。
「でも別に、長畑さんが頼りないとかそんなのではなくて、逆らいたいとかもなくて。俺よりよっぽどしっかりしているし、そう言う心配は全然していないんですが、何て言うか」
「……わかってる。言いたい事は全部わかる。こんな事を言ってくる君は生意気だとは思うけど、嫌じゃないんだ。不思議と」
言い訳じみた事を焦りながら告げたが、長畑は怒っているわけではないようだった。長畑の表情は見えなかったが、何となく楽しんでいるような空気がある。
「……初めて会った時は、小さくておどおどしていて、こんな子供が、と思ったのにね」
「小さくて、は余計です」
我慢できなくて告げると、くつくつとした笑いが、押し付けている胸に響いた。
「でも君は、大きくなった。一緒にいるうちにどんどん大きくなって、僕を追い越そうとして、僕は情けない奴だから、それに今気付いて焦っているんだ」
「……」
そうなのだろうか、と八束は考えた。
全然追いついていない。この男が焦りを感じる必要もないはずだ。
過去、互いに「追いつく」「待ってる」とそんな事を言ったが、多分、一生かかったって追いつく事はできないのだろう。この男とは、干支一回りほど歳が離れている。そう簡単に埋まる差ではない。埋まってもらっても困る、とこの男も内心思っているはずだ。
自分たちの関係は、ずっと八束が長畑を追いかけていく、その光景のまま、流れていくものなのかもしれない。
今はその背をただ追いかけるものから、手を広げて待っている男の元へ向かうものに、変わったような気もするが。
「今は、どう思っていますか? 俺の事」
「うーん……」
長畑は視線をめぐらし、考えた。
「小さくて可愛くてしっかり者で、真面目な顔して口説いてくるような、とんでもない子だと」
「……だから小さいってのはいらないって言ってるじゃないですか! 確かに長畑さんよりは全然小さいですけど、口説いてもないし!」
「じゃあ、年甲斐もなくきゅんとなった僕はどうすればいいの?」
「……きゅんとなった?」
「それはもう。君は真正面から口説いてくるものだから、慣れなくって、心臓に悪くて」
長畑がけらけらと笑いながら言うので、八束は顔を上げられなかった。恥ずかしさの持って行き場がなくて、目の前の胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。
(俺には遠距離恋愛なんて絶対無理だ)
電話してたまに会う関係で満足なんて、絶対に無理だと思った。ただでさえ嫉妬深いのに、こんな目立つ男、野放しにできっこない。自分の方が耐えられない。
そのとき、制服のシャツの裾の下から、するりと指先が入り込んでくるのがわかった。
少々汗がにじんだ背を、やわらかく撫で上げてくる。
「──僕とこういう事をするの、まだ怖い?」
耳元に囁かれた声に、八束はおずおずと視線を上げた。
「こ、怖いわけじゃ……」
ふるふると、慌てて首を横に振る。
「……ただ」
「ただ?」
「俺、そういうのした事ないから、実際やってみて、期待外れで、幻滅されたら……嫌だなって」
だんだんと小声になってしまった。情けなく俯いて、身を縮こまる八束を、長畑は目を細めて笑っている。
「僕が君の、何に幻滅しろって言うの? 君は素直であれば良いだけ。それでも嫌だと言うなら、無理にとは言わないけど?」
「……」
だんだんと手汗が滲んでくるのを感じながら、八束は唾を飲み込んだ。
「い」
──嫌じゃないです。
激しく鳴り始めた鼓動の中で絞り出した声は、上擦っていた。