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薔薇色の道

29 友人たちは我が道を行く


塾帰りの霧島と合流したのは、夜の九時を回った頃だった。
彼は家に帰らず学校から予備校へ直行していたようで、肩かけのスポーツバッグの中は学校指定のジャージや、大量の参考書、教科書で膨らんでいた。
「もしかしたら俺、予備校通いは年内で終わるかも」
佐々木希望の定食屋に着いてそれぞれメニューを注文し、一息ついたところで、向かいに座る霧島がぽつりと切り出した。その意味がわからず、八束は小首を傾げる。
「なんで? 予備校って受験ギリギリまで行くもんじゃないの?」
「俺、推薦受ける事になったから」
「あぁ……」
納得した思いで、八束は呟いた。霧島は既に担任から「合格余裕」の太鼓判を貰っているのだから、志望校の希望学科に推薦入試制度があるのなら、十分行けるだろう。
「へぇ、いいじゃん、推薦。楽で」
佐々木もテーブルに頬杖をつきながら、能天気に言う。
「面接して作文書いて、ちょっとしたテストしたら終わりみたいなもんだろ? 受かったら、他より早く遊べるわけだし。もらえてラッキーくらいに思えよ。日頃の行いの結果だ」
「……そうなんだけどね」
だがそう答える霧島は、どこか不機嫌そうな顔をしていた。
「お前には、悪気がないのがわかるからいいけど。ちょっと面倒な事言われてさ。今少し、腹が立っている」
「へぇ。何かあった?」
「……まぁね。人間いろいろ、いるんだろうけどね」
霧島がそんな事を言うのは珍しい。彼は頷いて、不機嫌の理由を語り始めた。

本人は「そうでもない」と謙遜するが、霧島は全国模試の結果も常に上位だ。
もともと中学時代から学力は非常に優秀だったそうで、本来であれば、もう少しレベルの高い高校に進学する予定だったらしい。
しかし中学生の頃は、幼少からの虚弱体質をまだ引きずっており、欠席が多かった。
第一志望だった高校は、学力とは別に出席率もかなり重視する学校だったようで、教師の勧めもあってそこを諦め、少しレベルを落として今の高校に進学したらしい。
そして今も、偏差値の高い大学を狙える力は十分あるのだが、第一志望は電車で小一時間ほどの場所にある、県立大学の英文科だ。
それは霧島の希望と、実家から通える学校をという両親の希望とをすり合わせた結果で、本人もそれでいいと納得しているものだ。
だがどうも塾で、そんな霧島を勝手にライバル視している人間がいるらしい。他校の生徒らしいのだが、模試の結果でいつも勝てない事が悔しいのか、ちくりちくりと嫌味を言ってくるようだ。
「今日も『来なくていいじゃん、県立なんて楽勝だろ?』とかニヤニヤ言われた。なんか目の仇にされているっぽい」
「「なんだそれ」」
思わず、八束と佐々木の声がだぶった。
「友達なのか? それ」
「いや。全然知らん奴。ほとんど話した事ないよ」
八束の問いに、霧島は首を振って即答した。霧島はイライラを落ち着かせるように、お冷を口に含む。
「そいつ、青葉の奴なんだよ」
 青葉、とはこの辺りで一番「賢い扱い」をされている高校の略称だ。もともとの霧島の志望校でもあった高校でもある。そこの生徒だというと、大体「へぇ、頭良いんだね」という反応が返ってくる。
「周りが言うには、うちの生徒を見下していたのに、俺の方が成績良いから面白くないんじゃないか、って」
「はぁ……またいい歳こいてアホ臭いな。そんなアホ、ほっとけ。絡む暇があるなら勉強しろ。落ちるぞアホって言ってやれ」
佐々木は眉間に皺を寄せて、ガラ悪く言い放つ。だが八束も気分は同じだった。
「お前もまともに相手にするなよ。そんなの気にするだけ無駄」
「うん。気にしてはいない。青葉の奴が皆そうってわけでもないし。ただ面倒だから、早く塾通いが終わればいいんだけど」
「だから、推薦にしたのか?」
「いや、そういうわけでもなくて。そのアホは別に関係ない」
八束の問いに、霧島は素直に首を横に振った。
「担任に、推薦行けるぞって言われたから、いけるならそっちを受けてみようかなと思っただけ。俺面接とか凄く嫌いだから緊張して死ぬかもしれないけど……そういうの、克服したいし。それにもし一般入試にして、その日に体調悪くしたらしゃれにならないからね。保険だよ」
「ふぅん……」
(こいつも、変わったんだなぁ)
そう何の気なしに語る霧島の顔を見て、八束はしみじみそう思った。
出会った頃の霧島は、存在感が全くなく儚げで、いつも自信が無さそうにびくびくしていた。人見知りが激しくて、声が小さくて、目も合わせてくれなかった。
当時の彼であれば、塾でそんな目にあったら、とっくに心折れて行かなくなっていただろう。
だが今はそれをただ「面倒」と、くだらなく思う余裕もあるようだし、苦手を克服しようとする動きもある。友人関係でトラウマを負うまでは元々積極的な子供だったというし、変わったというよりは、本来の自分を取り戻しつつある、と言った方が正しいのかもしれない。
そこは素直に良かった、と思えた。あまり体が強くないのは、この男が悪いわけでもない。生まれ持った体質だ。今はもうほとんど生活に支障もないのだし、霧島だって、もうちょっとのびのび生きたっていいはずだ。
そんな事を話している間に、注文していた定食がやってきた。
偏食の霧島が頼んだのは無難にハンバーグ定食。とにかく腹が減ってどうしようもない、という佐々木が頼んだのは生姜焼き定食だった。
「で、お前は焼きサバ定食かよ。渋いな」
割りばしを割りながら、佐々木が八束の前に置かれた、脂ののったサバの半身に視線を落とす。
「……好きなんだよ、焼き魚」
渋いと言われても、好きなのだから仕方ない。八束も割り箸を割ると、いただきますと手を合わせた。
(長畑さん、今頃ちゃんと晩ご飯食べているかなぁ)
魚の身をほじくりながら、恋人の事を思う。
あの男も立派な、いい歳こいた大人だ。無難になんとかしているはずなのだが、案外自分の事は適当に済ますので、気になりだすと心配だ。
以前泊まったとき、夏バテ気味だったあの男に素麺を茹でてやった事がある。朝ごはんも作ろうと思って、材料も買って来ていたのだが、その日はうっかり寝過ぎた。
隣に引っ付いて寝ていたくせに、あの男が起き出した事にさっぱり気が付かないくらい、八束は熟睡していた。
暑さで目覚めた頃には日が高く上がっていて、台所のテーブルの上に、自分の分の朝食がきちんと作ってあった。長畑は朝から外出予定だったらしく、もういなかった。
豆腐とわかめの味噌汁と、焼き鮭。
夏バテの間、米しか食べていなかったという癖に、八束が朝食用に買ってきていた食材で、きちんと自分のために料理してくれていたのを見て、いろいろこみ上げてしまい、ちょっと落ち込んだ。
有難いのと、完璧に寝過ごした自分が情けないのと、声くらいかけてくれたっていいじゃないかという思いと、これだけできるのだから、一人のときもちゃんと料理すればいいのにという思いで、だ。
焼き魚を見ていると、そんなひとりで食べた数日前の朝ごはんの事を思い出して、感慨深いのか悲しいのか、複雑な気分になってきた。
「そういえば」
そんな風に一人悶々としていると、向かいの霧島が、八束の皿を見ながらぽつりと呟く。
「俺って、そういう形そのままの魚って、何年も食べた事ないや」
「え? 魚嫌いだからだろ?」
「うん。……味もそうだけど、どっちかというと、形が苦手でさ。焼き魚とか煮魚って、眼とか白くなって飛び出して、気持ち悪いじゃないか。皮はなんかテラテラしてるし、刺身はなんか生っぽさと色が気持ち悪いし、筋っぽいし、魚ってシーチキンくらいしか食べた事ないよ」
(魚全否定じゃねーか)
どうやら、原型を留めていなければ多少食べられるらしい。
なんて我儘な奴なんだと思ったが、さすがにそれは言えない。
「親とか、食えるようになれとか言わないの?」
「言わないね。無理せず食べられる物だけ食べろって、ずっと言われていたから、自然にそんな風に偏った」
霧島は平然と、頷いて答えた。
(うちと教育方針、だいぶ違うんだなぁ)
好き嫌いでもしようものなら、食べきるまで席を立てなかった――そんな幼少時の思い出がよみがえる。だが子供時代の状況は、健康な八束と入退院を繰り返していた霧島とではかなり異なるので、そんな風に霧島の両親が甘くなってしまうのも仕方ないのだろう。
「ふぅん。なら、ちょっと食ってみる?」
「え」
「これ、頭ついてないだろ。皮嫌いなら、皮剥いだところ食えよ。皮も美味いけど」
八束の勧めに、霧島はじっとサバの半身を見下ろしていた。一応、興味はあるらしい。
「……いいの? じゃあ代わりにこのポテトあげる」
いらないと言う前に、霧島は八束の皿の上に、付け合せのポテトフライを置いた。嫌いな物を押し付けられた気も、しなくもない。
霧島は、箸で八束の焼きサバの身を少しつまんで、もぐもぐと噛みしめる。
「――あ。魚って、思っていたより、美味しいかも」
「でかくなると、子供の頃と味覚変わるからなー」
もう食器を空にしている佐々木が、呑気に温かい茶をすすりながら言った。とにかく空腹だったらしい佐々木は、生姜焼き定食を胃袋に詰め込んで、満足そうな息を吐いている。
「今度は家で、ちょっと魚食べてみようかな」
「そうしろそうしろ。お前は偏食が多すぎる」
八束のそんな言葉に、霧島は少し恥ずかしそうに笑った。

腹も膨れて、気持ちも落ち着いてきたところで、霧島の家に行く。
重厚で伝統的な日本建築の建物は、相変わらず家と言うより旧○○邸、とでも言った方がしっくりくるような、立派なお屋敷だ。
留守を任されたと言っても、何か役目があるわけでもない。受験生だからといって切羽詰まった者もいないし、気分は気楽だった。
荷物を置いた後、佐々木が「もうちょいジュースと菓子買い足してくる」と近くのコンビニに行ってしまったので、八束は霧島の部屋で、呑気にテレビを見ていた。
「なんか、修学旅行みたいだね」
ベッドに腰かけていた霧島が、照れくさそうに笑う。
八束も頷いた。仲の良い友人通しでお泊りなんて、久々だ。
「寝るときは、客間に布団敷くから。今日、親が布団干して行ったみたいだし」
「なんか、至れり尽くせりで悪いなぁ」
「いいんだよ。忙しいところ、呼んだのはこっちなんだから。一人だとこの家、広くて怖いしね」
確かに、と八束は周りを見渡す。
立派な家だが造りが古い家なので、廊下は長い。トイレは家の裏側、端にある。夜中に起き出したら、一人で暗く長い廊下を歩かねばならない。自分でも、この家に一人ぼっちだったら心細いだろう。
「八束は、地元に残る予定なんだっけ」
視線をテレビにやりながら、霧島が言葉だけをこちらに投げかけてくる。
「そう。就職先はまだわからないけど、当面そのつもり」
「受かるといいね、今のところ。就職するとお前も忙しいと思うけど、ときどきこうやって、遊んでくれよな」
「……うん」
八束は頷いた。春先以降、自分がどんな生活をしているのか、まだ上手く想像できない。友人二人は学生を続け、自分は一応、社会に出る予定。少し立ち位置は変わるが、友人関係を切りたくはない。このまま上手く、やれればいいと思う。
「好きな人とは、あれからちゃんと上手くやっているの?」
「え」
唐突に問われ、八束は少し焦った。
霧島には、好きな人がいると伝えている。片思いではない、という事も。
この友人は、詳細は何も知らないのだ。
「上手く、やっているよ」
どきりとしたが、それを顔に出さないように、笑って八束は告げた。
──上手くやっている。
他の人間なんて考えられないくらい、自分達の関係は、強固なままだ。
「なら、良かった」
霧島もにっこり笑った。他意のない澄んだ笑顔だった。
「お前は自分の事って、あまり喋らないし。悩んでも顔に出ないからさ」
「そうか? よく、だだ漏れだって言われるよ」
「好きな人に?」
「うん」
少し考えて、頷く。すると霧島は、どこか苦笑のまじった表情を浮かべた。
「それは多分、普段しっかり者のお前が好きな人の前で、超絶リラックスしているからなんだろうね」
「しっかりはしていないと思うけど……」
「しているよ。俺より全然しっかりものだ」
湿っぽさなどなく、霧島は笑っていた。
相手の事を興味本位で聞いてこないのは、八束が口にしないせいだろう。だから霧島なりに気を遣って、深く聞いてこないだけなのだろう。 そう思うと、彼にきちんと説明できない事が申し訳ないような、そんな気分になってきた。
「お前、どんな人が好きなの? タイプくらいは教えてよ」
「タイプ、かぁ……」
八束は真面目に考えた。そこまで誤魔化してしまいたくはなかった。確か、霧島の兄には、綺麗系好きですとか、そんな事を適当に言った気がする。
だがあの男を一言で表すのは、結構難しい。
「美人で癖があって優しい年上」
「……またえらく具体的なタイプだな」
霧島が眉間に皺を寄せて、こちらを見ていた。多分、予想外の意見だったのだろう。
「お前、結構面食いなの?」
「うん。多分そう」
「ふぅん……まぁいいや。参考にしとく」
「あ、うん。どうぞ」
何の参考にするのだと言いかけたが、霧島の仄暗い感情には八束も気づいている。
霧島も、八束がそれに感づいている事に気付いているだろう。だがその点に関して深く突っ込まないというのは、互いの暗黙の了解でもあった。
どちらが決めたわけでもないのだが。
八束はカバンの中から、手帳を取り出す。
現在九月。面接の結果は、遅くとも来週半ばにはわかると言われている。この夏に体調を崩すほどに悩み過ぎたおかげか、今更緊張も、落ちたらどうしようという思いもない。
落ちたら落ちたときだ。受かったら受かったときだ。そう思うくらいには、吹っ切れている。