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薔薇色の道

03 片腕


フライト時間は約半日。 だが、それを苦痛だと思う暇はなかった。
八束は飛行機が初めてで、何もかもが物珍しいというのもあったし、機内食というものも意外においしかったし、映画もたくさん観れる事を知った。
「やる事がなくなったら寝てればいいよ」と長畑に言われていたが、長距離バスに乗りっぱなしのような、窮屈な感覚を想像していた八束には、その「至れり尽くせり」な雰囲気が面白かったのだ。
「すげー、これすげー」といろいろいじっていたら、隣に座る長畑に「動きが小動物みたいになってる」と笑われて、少々恥ずかしい思いをした。
長畑は飛行機移動にはさすがに慣れているようで、「普段読めない本を読む」と本を数冊持ち込んでいた。少し覗いてみれば、なにやら字ばかりの厚い文庫本を読んでいる。
この男は結構な読書家だった。園芸書ばかり読んでいるのかと思いきや、推理小説や歴史小説も読む。本に関して言えば、雑食だった。
「そういえば君、飛行機初めてだっけ?」
「そうですよ」
何やらルールのよくわからないゲームを発見したのでいじっていると、隣の長畑から声をかけられた。
「降りる予定の空港、ちょっと風が強い時が多いかも。揺れる事多いから、一応覚悟しておいてね」
「はい」
そういうものなのか、と八束は素直に頷く。
降りるところはヒースロー空港という有名なところらしいのだが、八束はよく知らない。それよりも、入国審査に英語で答えなければならない、という事の方で頭がいっぱいだった。
遊んでいる場合でもない、と教えてもらったやりとりを思い出し、脳内で予習復習をする。
「聞かれる事は大体決まってるから、そんなに難しい事でもないよ」と長畑は言っていたが、八束は英語の日常会話も少々怪しいので、スムーズに答えられるように何度も思い出し、練習をする。
「……そういえば」
ふと気になって、八束は本を読んでいる長畑を見た。
「空港ついて、ロンドン行って……その後はどうするつもりですか?」
ここまで来ておいて、八束は旅の予定をよく知らなかった。
長畑も、あまり細かい予定を立てている様子はない。この男こそ計画は念密に練りそうなものなのだが、八束に「行きたいところがあったら教えて」と言う程度で、自分がどこへ行きたい、というのはないらしい。
「うん。ひとまず、グラハム達と合流しようかと」
「たち?」
八束が首を傾げると、長畑は本を閉じてこちらを見る。
「グラハムは今日仕事してるから、直接会社に来てって言われてる。迎えには誰か来るって言ってたから、多分彼の会社の人が来てくれるんじゃないかな」
「長畑さんって、グラハムさんの会社の人たち知ってるんですか?」
「知ってる人もいるよ。昔、用事があったらよく会社に直接行ってたからね。事情は知ってたから、向こうの人たちも良くしてくれたし」
「ふぅん……」
八束は感心したように相槌をうつ。
どんな人がいて、どんなところなのだろう。
そう考えると、不安もあるがわくわくとした感じもしてきた。飛行機に乗る前は緊張して、不安でちょっと吐きそうになっていたりしたのだが、これは一人旅ではない。
隣には頼れる男がいる。
長畑の帰省に、もっと気楽に付き合う気持ちでいて良いのかもしれない、と八束は思った。

それから数時間後。飛行機は無事、空港に到着した。
飛行機が降りたった空港は利用者も多く、かなり混雑している。
長い事並んで入国審査も無事終わり、やっとたどり着いた、そんな状況。
なのに、異国に着いただとか、そんな感慨を感じる余裕は全く、八束は人の流れにそって黙々と歩いていた。
「……ねぇ。無言になってるけど、大丈夫?」
黙り込む八束を見て、長畑が少々心配そうに話しかけてくる。
「……いや、大丈夫です。全然平気です」
八束は真顔でそうは答えたが、内心は全く大丈夫ではなかった。

先ほど長畑に「風で飛行機揺れるかも」と聞いていたのだが、その強風が、本日は半端なかったのだ。
機体は大きく揺れるし、横風のあおりをくらい、乗っていた飛行機は着陸を二度もやり直した。
そのときになって、八束は「あ、飛行機って落ちるかもしれないんだよな」という事を今更ながらに実感し、気が付けば例の「交通安全のお守り」をしっかりと握りしめてしまっていた。
もう邪念が込められたお守りだろうが何だろうが、関係ない。
飛行機が無事着陸した瞬間「日本の神様と霧島のお兄さん、ありがとう……」と思わず感謝してしまったほどだった。

「初めてがあれだと、トラウマになっちゃうかもねぇ」
長畑が苦笑しながら言う。彼はと言うと、凄まじく揺れている最中にも「こんなに揺れるの初めてだなぁ」と平然としていたので、逆に恐ろしかった。どのような人生を送ればそこまで肝が据わるのか、八束には全く想像できない。
だがその恐怖で固まっていたおかげで、入国審査を冷静な頭で通る事ができた。
「君、ちゃんと答えれてたじゃない。英語」
「脳内で百回はシミュレーションしてたんですよ……」
予習復習。そして落ち着きと言うのは大事なのだ、と八束は身をもって実感した。
すでにへとへとになっている八束に対し、長畑は落ち着いたもので、疲れも見せない。

「さて、どうしようか。ゲート出たらそこで待ってて、って言われてるんだよ。人多いのにわかるのかなぁ」
「こっちがロンドンまで出た方がいいような気がするんだけどねー」と長畑は腕時計を見た。
着陸前にそんなトラブルはあったものの、飛行機はほぼ定刻通りで到着している。
一応そんな打ち合わせになっているのだから、下手に動くわけにも──と八束が考えていると、近くに同じく、きょろきょろと周囲を見回している人物がいる事に気付いた。
グレーのスーツを着た、三十代後半くらいの、ビジネスマン風の白人男性。
「この人も誰かと待ち合わせなんだなぁ」と考えながらなんとなく見つめていると、目が合った。
その瞬間、男は何やら笑顔を浮かべて、こちらに歩み寄って来たので、八束は思わず長畑の服の裾を掴んだ。男は、八束と長畑の前で立ち止まる。
「永智さん、お久しぶりです」
その男は穏やかな日本語で言うと、長畑に向かって握手を求めた。
「……誰?」と長畑を見つめると、彼の顔には懐かしい者を見たような笑顔が浮かんでいる。
「サーシャ。久しぶりだね」
「えぇ、ほんとうに。もう5,6年ぶりになりますか」
二人は握手をしながら、笑顔で頷きあっている。
「社長から迎えに行くよう言われまして。数年ぶりだったのですぐにわかるか不安だったのですが……お元気そうで、なによりです」
サーシャと呼ばれたその男性は、長畑に笑顔でそう告げる。少々英語なまりはあるが、かなり流暢な日本語だった。そして、笑顔で八束の方を見る。
「君が、八束君ですか?」
「あ、はい」
急に名を呼ばれたので、八束は慌てて背筋を伸ばした。
かなり真面目に英語を勉強してきたのに、日本語で話しかけられると面食らう。
「はじめまして。グラハムからよく聞いていますよ。ようこそいらっしゃいました」
「は、はじめまして」
握手を求められたので、八束も慌てて手を差し出す。にぎにぎと握手を交わしながら頭を下げると、サーシャはその知的な顔に苦笑を浮かべた。
年齢はグラハムよりは少々若そうだ。背は長畑より小柄だが、手は大きい。
「私の事は遠慮なしに、サーシャと読んでくださいね。本名は少々長いので」
「はい……日本語、すごく上手なんですね」
感心して言うと、サーシャは少々照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「社長の勉強に付き合わされているうちに、覚えました」
「勉強?」
「日本の映画などを観てます。よく付き合わされていまして、それでいつの間にか覚えました。全く書けませんし、彼ほどうまくはないですが」
「いや、でもすごいですよ」
それだけで覚えてしまえるというのがすごいなぁ、と八束は素直に感心する。
「そういえば、グラハムよりメッセージを預かっています。今日は本人がすごく来たがっていたんですが、どうしても外せない予定が入ってまして。今も無理やり現場に突っ込んできたところです」
「……なんか、ごめんね」
その図を想像したらしく、長畑がなんとも言えない顔で謝った。
「いえ、いつもの事ですし、あなたが謝る事でも」
サーシャはそう言いながら、スーツの胸ポケットを探る。 カードを受け取って中身を確認した途端、長畑の眉間に皺が寄った。
何が書いてあるのかと覗き込もうとすると、長畑に無言でカードを手渡される。

そこには『むかえいけない きらいにならないで』とだけ書かれていた。

「……」
急いで書いたらしいが、文字の乱れ方に怨念めいたものを感じる。
「いや、別にこれくらいで嫌いにならないし……」
長畑が呆れ顔でつぶやいている。それには、八束も完全に同意だった。
「一週間くらい前から、クリスマス前の子供みたいにうずうずしてましたからね。でもあの人の機嫌が良いと仕事がはかどるので、有難いんですが」
サーシャは爽やかに笑いながら言う。
「……ずっと思うんだけどさ。よく彼と長年一緒に働いているよね。面倒くさいって、思うことないの?」
長畑の問いに、サーシャは苦笑した
「あの人と働いてると、退屈はだけはしませんから」
楽しいですよ、と笑いながら告げる。
「ひとまず、あの人と合流しましょうか。あまり私だけここで再会を喜んでいたら、あとで『ずるい』ってうるさいので。ついて来て下さい」
爽やかな笑顔を浮かべて、人ごみの中をサーシャは進み始める。
「あの、長畑さん。サーシャさんって、どんな人なんですか?」
はぐれないようについて行きながら、八束は長畑に、小声で問う。
長畑と彼は、随分親しいような気がしたからだ。
長畑は、にんまりと笑顔を浮かべた。
「彼はね、グラハムの片腕、ってところかな。グラハムが独立した頃、わざわざ勤めていたところを辞めて、一緒にやって来てくれた人。一番信頼されてるんじゃないかな。しっかりしてるし」
「確かに、すごいしっかりしてそうですけど」
癖のあるグラハムの扱い方を、心得ていそうな感じがする。
「グラハムがあの通り、好き嫌いで突き進むところがあるから、そのあたりをきちんと締めてくれるんだよね、彼は。口は悪いけど、優しい人だよ。僕は結構世話になった」
「……口悪いですか?」
かなり紳士的だったと思うけど、と呟くと、長畑は苦笑した。
「そりゃ今は、気を遣って不慣れな言葉で話してくれてるからだよ。英語のときはもっと口悪い。まぁ君は大事なお客様だから、君相手にそんな事しないと思うけどね」
「いや、俺多分、スラング言われても全然わかんないと思いますけど……」
八束も苦笑する。
緊張ばかりだった旅行だが、なんだか楽しくなってきた。