HOMEHOME CLAPCLAP

薔薇色の道

09 子供の我儘


(あの人は、どうしたんだろう)
八束は客間の、慣れないベッドの上に腰かけて、先ほど見た長畑の表情を思い出していた。
あまり、見たことがない顔をしていたような気がする。
久しぶりにあの男の素の表情を見た気がして、八束の方が動揺してしまっていた。
グラハムも似たような何かを感じたから、八束にあんな事を言ったのだろう。これは、勝手な思い込みではないはずだ。
八束はそのまま、ベッドの上に転がる。
──今日一日は、とても慌ただしかった。
だが自分がずっと知りたかった、こちらでの長畑の暮らしを何となく知る事が出来たし、彼の事を良く知る人間とも出会えた。八束に隠すわけでもなく、聞けばオープンになんでも教えてくれるのは嬉しかった。
ここは八束にとっては見知らぬ国で、縁もゆかりもない場所だ。長畑と関わらなければ、訪れる機会なんてほぼなかっただろう、とも思う。
だが好きな人が長く過ごした土地だと思うと、生まれてくる感慨のようなものはあった。
(……でも俺が満喫してても、意味ないんだよ)
見慣れぬ高い天井を見上げながら、思う。
今回「帰る」と決めたのは長畑だ。
この「旅行」というか「里帰り」は、彼の為にあるのだ。
何か嫌な思いをしてほしいわけでもない。
八束がそんな事を考えていると、長畑も片づけを終えたのか、静かに部屋に入ってきた。
座っていたこちらの姿を見て、長畑は少し意外そうな顔をした。既に寝ていると思われていたらしい。
「……起きてたんだ。先に寝てて良かったのに」
「あ、いや」
片づけを「手伝います」と言った八束を、やんわりと断ったのはこの男である。
「長畑さんまだ片付けしてたし。待っていようかと思って……」
そう、言い訳のように言うと、長畑はこちらを「仕方ないな」というような視線で見て、笑った。
「君も真面目だね。グラハムなんか、とっくに寝てたよ」
「あの人、ちゃんとベッドで寝てました?」
足取りが少し怪しかったので、八束は少々心配していた。
長畑は、笑顔で頷く。
「覗いたら、ちゃんとベッドで布団被って寝てたから大丈夫。ただ、スーツ脱ぎ散らかしてたから回収した。いい服着ててもあれだからねぇ」
 だから手間取った、と長畑は穏やかに笑った。この男の事だから、イライラしながらもきちんと、ハンガーにかけるなりしてきたのだろう。
 想像して笑いながら、八束はグラハムの言葉を思い返していた。

──あの子、ちょっとテンション低くない? 何かあった?

(……今は、そんな風に見えないけど)
旅行自体はトラブルも何もなく、ここまで来て一日を終えようとしている。
周囲の人々は暖かく、快く自分たちを迎えてくれた。
その事に八束は安心していたが、この男にはまだ、誰にも言えないような晴れない部分があるのかもしれない。「いろいろあったから」と言っていた。
それはただ「懐かしい」というだけの気持ちでも、ないのだろう。
「……長畑さん」
「ん?」
「あの、大丈夫、ですか?」
「何が」
 向かいのベッドに腰掛けた長畑は、僅かに首を傾げている。何を問われているのかよくわからない、といった様子だった。
「いや、その……なんか元気がないんじゃないかって話してて。グラハムさんとも」
 少し言い辛く、口ごもりながら言うと、「……君らは、ほんとに仲が良いよねぇ」と長畑は呆れた様な顔をして言った。
「何かいつも二人で密談してて、僕は仲間外れにされてる気がする」
「そ、そんなつもりは全然ないんですけど」
慌ててそう言うが、長畑は少しだけ不満げな表情を浮かべていた。
それが八束に対してなのか、グラハムに対してなのかはわからなかった。八束が言葉に困っている様子をしばらく眺め、長畑は苦笑いを浮かべる。
「まぁ、いいけどね。仲良くしてくれるのは有難いし。喧嘩されても困るし」
 長畑はそう言いながら、ベッドにごろりと横になった。既に寝るつもりらしい。
「……あの」
  迷いながらも八束は腰を上げ、隣のベッドの端に移動する。
「結局、どうなんですか」
「今日はねばるね、君」
「だって、すごく煙に巻かれそうだったから」
さらりと、こちらの質問がなかったことにされている。この男は、そういった事がうまい。
「そんなつもりはないけど……」
しつこく問うと、長畑は少し困ったように八束を見上げてきた。
「元気ですけど、って言っても納得しなさそうだね」
「元気ならそれで、いいんですよ」
八束は恐る恐る、だが真剣に、寝る体制に入りつつある男を見つめた。
「ただ何か思うことがあるなら、知りたいと思っただけです」
「僕は、そんなに儚い感じになってる?」
「別に、そういうのでもなくて……何かあっても結局、長畑さんは自力で解決するんでしょうし」
「じゃあ、何?」
八束のはっきりとしない言葉に、長畑は微笑を浮かべてこちらを見ている。
なんだか、駄々っ子を宥めるような顔をされている。それが悔しいと思う。
「俺は、好きな人が何か気持ちが滅入っているような事があるなら、相手が平気だって言っても、無視していいとは思えないから……。知っておきたいし、共有したい。それだけです」
そう一気に言い切ってはみたが、言った後で、それがとても自己満足な発言のような気がしてきて、八束はそう言った自分に嫌悪を感じた。
誰だって、言いたくない事くらいあるだろう。特にこの男は、本音を隠したがる。
普段は「こういう人だから」と流せるのに、今は不思議と、それができないでいた。
 ──好きだから、その人の事を全部知りたい。何かあるなら、それも知りたい。自分も心配だから。
八束は、それが当然だと思っている。
でもこの男はそうではないのかもしれない。
自分が思っているから別の人間もそう思って当然とは、さすがに八束も思ってはいない。特に長畑とは、自分の考え方がそこまで似ているタイプだとは思えない。
言ってみたは良いものの、自分の気持ちを押し付けているだけのような気分になってきた。
「──すみません。なんか、俺重たいですよね」
 自分は、恋愛面に関してはとことん重くなってしまう。改めてその事が情けなくなり、八束は肩を落とした。そう言った瞬間、背後でため息が聞こえる。
「だから、君は謝りすぎだって言うじゃない」
 言いながら、背中を小突かれた。
「それで君を不安にさせてるなら僕が悪いんだから、君が謝る事じゃない。……飲み過ぎると湿っぽくなるからね、僕は。それで心配かけてるのかもしれないけど」
「そうですか? 全然、酔ってるように見えませんけど……」
 グラハムのぐたぐた具合を見ているからなのだが、この男は顔色も何もかも、いつもと変わりないように見える。
「三崎さんも、長畑さんはザルだって言ってたし」
「だから、あれはあの人がそうやってからかって言うだけ。量は飲んでも平気だけど、顔に出ないだけで結構酔ってるんだよ本当は。だから普段言わないような事言うかも。素が根暗なんで」
「いや別に、根暗とかは思わないですけど」
──そんな事言われても、困る。
この男も案外、酔うときは面倒くさい酔い方をするらしい。自覚があって自我を保っている分、余計に。
「君も、僕と飲むようになったらわかるよ」
「飲むようになっても、同じペースで飲むなとは、サーシャさんに今日言われました」
「もう、そんなに馬鹿みたいに飲んでないよ……」
そこまで若くない、と言いながら長畑は八束に背を向けて寝返りを打った。
(三十ってまだ若いうちなのでは……)
十代には、三十代というのはとても大人のような気がするが、全体から見ればまだ若い部類のはずだ。
今ならグラハムの言った「彼は若さが足りない」と言った言葉の意味が、わかるような気がした。
「ところでさ、君。ここで寝る気?」
長畑が、半眼で振り返る。「えっ」と、八束は少し腰を浮かした。
「そ、そこまでは……っ!大丈夫です、寝るときはちゃんと自分のベッド行くんで」
八束の慌てっぷりを、長畑は少々楽しそうに見ていた。
「身構えなくてもいいよ。僕も多分、そのうち寝るし」
「……すみません、疲れてるのに」
「だから謝りすぎ」
「う、わっ」
 いきなり手を引っ張られ、ベッドの端に座り込んでいた八束の体は、簡単に横に転がる。
「……」
目の前に、長畑の顔がある。突然向かい合う形で転がされ、驚いた八束は言葉も出ず、目を見開いて目の前の男を見つめる。
長畑はにんまりと、だが優しい表情で笑顔を浮かべながら、言った。
「あんまり謝るの、禁止ね」
「す……」
すみませんと言いかけて、八束は慌てて言葉を飲み込んだ。
「僕は好きで君といるんだから、迷惑だとかなんだとか、そんなの全くないの。わかった?」
「はい」
八束は、こくこくと頷く。
顔が近い。恥ずかしくて心臓はばくばく言っているのだが、このまま動きたくないという下心のような気持ちもある。
頷いた八束の頭を、長畑は満足げに撫でる。
「そりゃあね、君に言いたくない事なんて、たくさんあるよ。だってとても、格好悪くて情けない事ばかりだからね」
「別にいいじゃないですか。俺ばっかり情けないところ見られて、悔しいんですよ」
そう呟くと、小さく笑われた。
「年下の君に言うべきじゃないって、僕なりに遠慮もしてるんだよ」
「そんな遠慮いらないです。俺だって好きで一緒にいるんだし。……言われている意味がわからないほど、子供じゃないつもりです。あと、その」
言葉に詰まりながら、遠慮気味に言う。
「…………もう少し、ここにいても」
いいですか、と問うと、長畑が呆れた様に目を細めて、八束を見た。
「……君さぁ、結構積極的だよね、意外に。ときどきびっくりする」
「た、他意はないんです!」
「さっき、寝るときは自分のベッド行くって言ったじゃない」
「寝るのはちゃんと向こう行きますから!」
──ただ引っ付きたいだけだ、とは言えない。
そんな下心を持つ自分も恥ずかしく、八束が顔を熱くさせながらわめくと、ぼすりと布団を体の上にかぶせられた。
「グラハムが寝てるから、静かにね。騒がない事」
「はい……」
返事をしながら、もぞもぞと動いて、自分の落ち着く姿勢を探す。
夏だが夜の空気は若干肌寒かったので、人間の体温で温まったシーツの感覚が、心地よい。
「ここにいてもいいけど、僕いつ寝るかわからないよ。久々に量飲んだから、結構眠いし。途中でいきなり気失ってたらごめん」
「それはいいです、こっちが押しかけてますし……霧島のお兄さんと飲んでるときも、結構二人で飲むんですか?」
「いや、あの人は飲み過ぎると泣きが入るタイプだから、僕は様子見ながら飲んでる」
「へ、へぇ……」
八束が同席しているときは、二人ともこちらに気を遣ってあまり飲んでいる印象がないのだが、二人きりで飲んでいるときはそんな事になっているらしい。この男はそんな、「泣きが入った愚痴」もきちんと聞いているのだろう。適当に相槌をうって、半分くらいは聞き流しているのかもしれないが。
(わりと、いつも気を張ってる人だよなぁ)
珍しく「酔ってます」と言うほど飲んだのは、今日は周りが信頼している人間ばかりだったからだろう。いつも周りを見て、空気を読んでさり気なく動いている。面倒見は良い男だ。
「長畑さんって、人にあんまりわがままな事言わないですよね」
「わがままだよ、僕は。だからグラハムとも揉めたんだし」
「でもそれはなんか違うような……進路相談で親と揉めるみたいな感じなのかと思ってましたけど」
「うーん……まぁ、そうだと言えるし、そうでないとも言えるんだけど、そこはまぁ、身内の喧嘩だからね。互いに遠慮なかったから、長引いたんだと思う。互いにかっとなりやすいし。あれが他人だったら、自分は悪くないと思ってても謝ってたかもしれないけど」
その方が面倒じゃなくていい、と長畑は呟く。
この男は霧島兄の言うとおり、「とてもプライドが高い」男なのだが、対人面ではあまり我を通す男でもない。
本人は「かっとなりやすい」と言うが、八束が見る限り、何か言われても、熱くならずに笑っているような男だ。基本的に誰かとぶつかる事は好まないのだろう。「平和主義者」というよりは、ただ単に「面倒くさい」のだろうが。
「サーシャさんが、言ってました」
「ん?」
「長畑さん、昔から聞き分けが良くて、手のかからない子供だったって」
「そんな事、いつの間に聞いてたの?」
長畑が苦笑いを浮かべて、八束を見た。「下ネタ会議のときです」とは言えず、八束は適当に笑ってごまかす。
「勝手に探ってすみません。でも、長畑さんは長畑さんだったんだなって、ちょっと思いました。でも、そういう話が聞けただけでも、俺は来て良かったなって思います」
「そう? もうちょっと違う方面で楽しもうよ。観光とか」
長畑は少々気まずそうに笑っている。やはり、あまり自分の昔の事は語りたくないのだろう。
八束がそう、思ったときだった。
「……こっちに来てからね」
少しの間の後、ぽつりと長畑が呟いた。
「いや、来る前からかな。ずっと考えてる事がある。僕が元気なく見えたのなら、きっとそれが原因だと思う」
「え」
突然の告白に、八束が恐る恐る問うと、長畑は「とても昔の事なんだけど」と前置きをして、八束を見た。
「僕がまだ、子供の頃ね。僕は両親が歳を取ってからできた子で、一人っ子だったし随分と可愛がってもらってたよ。だけど、仕事が忙しい人たちでね。彼らも仕事大好きな人達だったから、子供の頃は一人で留守番をしている事が多かった。父は母がいないと何もできない人だったから、母親もよくくっ付いて行ってたし」
「……」
八束は、黙って長畑の話を聞いた。
彼がこんな、両親の事を八束に語って聞かせる事は、滅多にない。
だからこそ、途中で自分の言葉をはさむことができなかった。
「仕方ないんだって思ってたよ。その事で、何かを言うのはずっと悪い事だと思っていた。留守番ばかりでも大丈夫って言っておけば、しっかりしてるねって周りから褒めてもらえるでしょう? 子供なりにそう考えて、そう見えるように振る舞ってた。可愛くないよね、今考えたら」
畑は、自嘲にも似た笑みを浮かべた。
八束は、首を横に振る。
「──でも日本にいる間はそれで良かったんだよ。でも、いきなり仕事の都合で、こっちに移住になって、言葉が全くわからないのは家族で僕だけで。グラハムも気を遣ってよく来てくれたけど、彼も仕事してたから毎日じゃない。だんだん、苦しくなってきてね。ある日つい、両親にわがままを言ってしまった」
「……」
聞いている八束は、だんだん心臓が苦しくなってくるのを感じる。
それはわがままじゃないだろう、と思う。
 子供であれば誰だって、思って当然の感情だ。
「……本当に、言わなければ良かった、あんな事」
 ため息と共に呟かれた言葉には、苦い後悔のようなものが込められていた。