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夏の光、俺の血筋

02 浅黒い高校球児


 夏休みと言っても、世の中は平日だ。父も母も、家業の店の営業で忙しい。
 一人家族の中で暇を持て余している健一郎は、母から言われて仕方なく、家の中に掃除機をかける。
 今日から例の下宿生がやってくるからだ。母親はもともと綺麗好きなので、家の中がとっ散らかっている事などなかったが、やはり初めて生徒を迎えるにあたり、念入りに掃除しておきたいようだ。
「あんたも暇なら、部活とかやればいいのに。夏休みとか家で寝てばっかりでしょう?」
がーがーと、音のうるさい旧式の掃除機を畳みの上にかけていると、母親が雑巾とバケツを持って来た。縁側の雑巾がけもしろ、という事らしい。
「俺は俺で、そういう時間を有意義に使っているんだよ。そういうのんびりした時間がないと、死ぬの」
 健一郎が真顔で言うと、母は呆れた顔をした。
「そういうところ、全然お兄ちゃんと似てないよね、あんた……。同じ環境で育てたのに、やっぱり個性ってあるんだなーと、あんた達を見ていたら感心するわ」
「兄貴は兄貴、俺は俺ですから仕方ないです」
 そう言いながら、健一郎は新品の雑巾をバケツの水につけ、ぎゅっと絞った。
 健一郎には兄がいる。名前は彗星の彗、一文字で彗。
 健一郎の三つ年上で、今は県内の大学に通っている。繊細な雰囲気の名前を持つ癖に、がたいが良くて素直で活発で、豪快な男だった。
 考えている事がわかりやすい為か、気難しい父と仲も良かった。その点健一郎は、父親に「何を考えているのかわからない」と思われているらしい。だが意識的にそんな態度を取っているわけではないので、そんな事を言われても、健一郎はどうしたらいいのかわからないでいる。
 兄の彗は、健一郎と同じ高校に通っていた。
 ただ健一郎と違うのは、普通科ではなく体育科に通っていた事だ。地元の中学で野球部に在籍していたときに声をかけられ、家が近いため寮には入らず、毎日毎日遅くまで練習をして帰宅するような日々だった。
 そんな兄は、野球部の正捕手として、甲子園出場も経験している。優勝には至らなかったが、二年連続ベスト4という好成績で終えた。兄と同期の者の中にはプロ野球選手になった者もおり、実際兄にも声をかける球団はいたようなのだが、断って大学に進学し、野球を続けている。当時の世代は世間からも注目され、野球部始まって以来の黄金期だと言われていた。
 だが今は若干低迷して、その世代が抜けた後は甲子園出場をしばらく逃している。弱いうえに部内で問題を起こし、とんでもない暗黒期だと今の野球部を揶揄する者もいるが、健一郎に言わせれば、兄の世代が走・攻・守バランスよく強すぎだのだ。
「それで、母さんはいいわけ? 家を下宿にする事」
 てきぱきと掃除をする母の姿を眺めながら、思わず聞く。
「お兄ちゃんだって、野球部の子沢山連れて来て家でご飯食べたりしていたじゃない。今更よ」
「いや、まぁそうだけど……でも、しばらくずっといるわけじゃん?」
「なにあんた、父さんにいいよって言ったくせに、今更文句あるの?」
「いえ、そういうわけじゃないですが」
 嫌だと言えない空気もあったわけで──そう口ごもると、母も少し考えたように首を傾げた。
「……まぁいきなりそんな事言いだすから、びっくりはしたよ。でも父さんがあんな事言い出すの、珍しいからね。それに事情が事情だから。遠くからわざわざ野球やりたくて来ているのに、寮で理不尽な思いして居辛いなんて、かわいそうじゃない。お兄ちゃんにも相談したけど、いいって言ってたし」
「兄貴にも相談済みなんだ……」
 けらけらと笑いながら許可を出す兄の顔を想像して、健一郎は苦笑いを浮かべた。
我が家はどうも、すっきりさっぱりした性格の人間が多いのだな、と健一郎は思う。父も頑固だが筋は通っているし、母はこの通り、さばさばとしている。兄もスポーツマンらしく明朗快活を地で行く男だし、ぐちぐち言っている煮え切らない人間は、自分だけのようだ。
「あと何日かしたら、お兄ちゃんも帰省するみたいだし、上手くやってくれるんじゃないの? あんたも気まずいところはあるのかもしれないけど、それは向こうも同じなんだから、多少は気遣ってあげなさいよ」
「うん」
 それもそうだと、頷く。別の家庭に一人他人として混じるというのは、相手としても不安が強い事だろう。健一郎であれば、食事も喉を通らないだろうと思う。だがきっと、そんな事よりも寮での生活の方が、彼にとっては苦しかったのかもしれない。
 そう考えたとき──家の玄関でインターホンが鳴った。
「あ、例の子来たみたい。健一郎、掃除機と雑巾、片付けておいて」
 母は弾むような声で言うと、玄関の方へ小走りで向かって言った。何だかんだで、社交的な母は楽しみにしていたらしい。掃除機とバケツを片付けると、健一郎も緊張を抱えながら、玄関に向かった。


 玄関の前にいたのは、スポーツバックを肩にかけた、制服姿の高校生だった。
 黒い学生服のズボンに、カッターシャツの白さが、日に焼けた浅黒い肌との対比でよく映えた。背はすらりと高い。だがひ弱さはなく、半袖シャツからのぞく腕は筋肉質だった。どこか寡黙そうな、鋭い視線の若者は、姿勢よく、理想的な角度で頭を下げた。
「初めまして、園田光です。よろしくお願いします」
 落ち着いた声音に、隣で母がにこにこと嬉しそうな顔をしている。
「初めまして。今日からよろしくね。で、この子がうちの息子の健一郎です。園田君と同級生。ほら、あんたも頭下げなさい」
 母から思いきり、背を叩かれた。
「……志方健一郎です」
 健一郎は、はずみでよろめきながらも頭を下げる。目の前の高校生も、ぺこりと頭を下げた。
(なんか、全然イメージと違うなぁ……)
 頭を下げながら、健一郎は思う。
 寮で先輩からいじめを受けていたと聞いていたから、どこか弱々しく儚げな男を想像していた。だが目の前で会ってみれば、同い年とは思えないくらい落ち着いて、礼儀正しく堂々とした男だ。顔立ちも整っていて、視線もどこか力強い。いじめを受けそうな印象なんて、どこにも見当たらなかった。
「健一郎、あんた園田君を部屋まで案内してあげてよ。わからない事があったら、教えてあげてね」
「……わかった」
 母は忙しいのだろう。「じゃあね」と言いながら、店の方へ向かって行った。玄関先に二人残され、健一郎は恐る恐る、園田の方に視線を向ける。
「じゃあ……行きますか」
 園田光は、こくりと頷いた。