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夏の光、俺の血筋

04 憧れの兄と、過去の熱


 兄である彗が久々の帰省をしたのは、その日の夕方の事だった。
「……なんか、今日帰ってくるってのは予想外だったんだけど」
 健一郎は久々に兄と顔を合わせる気恥ずかしさもあり、後ろ頭を掻きながら言う。
「今から帰る」という連絡を突然受けて、健一郎は兄の彗を近くのバス停まで迎えに行った。
 別に母から何か言われたわけでもない。迎えに来いと言われたわけでもない。ただ何となく、家の状況がいつもと違うので落ち着かず、兄に救いを求めたかっただけだ。
「いや、例の話を聞いてさ。お前が多分、家で何も言えずに居辛そうにしているだろうなーと思って」
 体格の良い兄は、スポーツマンらしく日焼けした顔で、にかりと人の良さそうな笑みを浮かべた。その顔は、家で毎日顔を合わせる父の笑い方とよく似ていた。
 頑固で気難しい性格の父と、快活な兄の彗。中身は全く違うのだが、不思議と父とも馬が合うのだ。昔はそうでもなかったのだが、顔も年々似て来ている。
「あー……よく御存じで」
 図星をついた兄の言葉に、健一郎は半笑いで答えた。
「お前がその辺り難しい奴だってことは、さすがに長年の付き合いで知っているよ」
 兄はけらけらと笑った。笑う兄を、健一郎は横を歩きながら眺める。
 自分より背が高く、ラガーマンのような体格をした兄。反対に母に似たのか父に似たのかもよくわからず、ひょろりとした体格の自分。夏も引きこもっているので、肌も生っ白い自分。多分道行く人々は、兄弟だとは思わないだろうな、と思う。昔から似ていると言われた事もない。
 だがよく笑う兄の顔を見ると、どことなく安心した。昔から自分は、この頼りがいのある優しい兄を隠れ蓑として生きて来たのだ──そんな自覚はあった。
「で、どんな子なの? その下宿に来た子って」
 強い西日をあびながら、彗が言う。
「園田の事?」
 健一郎は小首を傾げた。
 きっと兄が予定を早めて帰って来たのは、家で生き辛そうにしている自分への心配半分、園田への興味半分なのだろう。
「思ったより普通の男だよ。野球やっていてピッチャーらしいんだけど、喜べ。兄貴の事知っていて、結構ファンらしいから」
 笑いながら言ってやると、彗は意外そうな表情を浮かべた。
「……へぇ。それはまたニッチな。投手は投手に憧れるもんだと思っていたが」
「投手だから、捕手にも目がいったんじゃない? あと兄貴よく打つじゃん? 打席で気合入っている姿が好きだったとか」
「自分じゃ自覚ないんだがな、あれ。よく冗談で人殺しの目になっているって言われるけど」
「あぁ、そんな事言われているんだ……」
 笑いながら言ったが、兄は苦笑いするだけで怒らなかった。
 この兄は、普段はこの通り温厚で、言葉を荒げる事もほとんどないのだが、打席に入ったときの集中力は凄まじかった。もちろん本人が言う通り、相手を威嚇しているつもりは全くないのだろうが、色黒でがたいの良い男の、ヘルメットの下から覗く鋭い視線というのは、なかなかひやりとするものがある。
 秘めた闘争心、とでも言うのだろうか。
 生憎、お世辞にも見た目が可愛らしい感じには見えなかったから、中学高校と女子にもてたという話はあまり聞かないし、甲子園で活躍した後も人気が出たと言う話は聞かない。だがチームメイトからはとても慕われていたし、後輩からも人気があった。どちらかと言えば、同性から慕われるタイプだ。
 そんな兄の姿は、健一郎にとっても幼い頃から「カッコいい存在」だった。
 少年野球チームにいた頃からエースとして活躍していた兄の存在は、自慢であり誇りであり、憧れだった。
 兄のようになりたい、と思うのも自然な事だった。
「──それで、お前は今なにやってんだ?」
 そんな昔の事を思い出していると、兄がじっとこちらを見下ろしながら言った。
「なにって?」
「部活とか進路とかバイトとか。何か、目標もっているのかなと思って」
「別に? 何もしてないよ。部活もしてないし、勉強もそんなにやる気ないわけだけど、とりあえず学校だけは真面目に毎日通っている状況ですね」
「無気力なのか真面目なのかよくわからんよな、お前は……。まぁ根は真面目なんだろうが」
「どうですかねー」
 健一郎は茶化して笑う。
「まぁ、中途半端なんだと思うよ。鬱々しても退屈でも、悪ぶってみる勇気もないし、怒られるのも未だに嫌だから、宿題もやるし悪い事もできないみたいな」
「悪ぶりたいのか?」
 兄は真顔で問うてきた。健一郎は苦笑しながら、首を横に振る。
「だから、そんな勇気はないって……。例えだよ。それに俺が変な道に反れたら、ただでさえ俺の事気に入らない親父がガチで殴ってくると思うし。そういうのも馬鹿らしいし、親父にたてつく気は更々ないし」
「まぁ、人の道に反れるような事があれば鉄拳制裁確実だろうが、別に親父はお前の事が、普段から気に入らないわけじゃないと思うんだけどな?」
「そうかな? 微妙に距離置かれているの、わかるよ」
「お前も自分から距離置いているから、お互い様だろ?」
「うーん……」
 兄の言葉は、事実だった。事実過ぎて何も言えなかった。だが隣の兄は、無様にも黙り込んだ弟の姿を見て、苦笑した。
「多分、そういう不器用なところが互いに似ているんだよな。似た者同士だからうまくいかないところもあるんだろ。まぁお前はあまり深刻に気にすんな。親父もあれで、豪快なようでいて、結構細かく気にする人間だからなー」
「……兄貴は、性格母さん似だよね」
「よく言われる」
 けろりとした表情でそういう兄の顔は、やはり父とよく似ていた。きっと若い頃の父は、こんな顔をしていたのだろう──そう思う。だが明るく白黒はっきりしている性格は、母譲りだと思う。
 自分と父が似ているなんて、そんな事考えた事もないが、そういうものなのだろうかと思いながら、兄弟二人、夕暮れの蒸し暑い歩道を歩いた。


 兄の彗と初めて顔を合わせた園田は、随分と緊張して固まっているようだった。
 園田が使う部屋は、中庭に面した、かつて祖父母が使っていた六畳ほどの和室だ。彼らが亡くなってからは、物置部屋として使われていた。
 下宿話が決まって母が気合を入れて片付けたのだが、押入れに隠し切れなかったであろう段ボールがまだ二箱、部屋の隅に残っている。母は「また片付けるから、少しの間ごめんね」と言っていた。園田自身は荷物も少なく、あまり気にしていないようだった。
「あの、はじめまして」
 家を出る際、兄を迎えに行ってくる、とは園田に伝えていた。健一郎が紹介する前に、瞬時に立ち上がった園田は、それだけ言うと頭を下げた。理想的なお辞儀の角度だった。
(体育会系だなぁ……)
 それを横から眺めていた健一郎は、半分呆れながらもある意味凄いなと思った。多分体に沁みついているのだろう。
「いやー、やめてよ園田君。こちらこそはじめまして」
 兄はにこにこと愛想の良い笑みを浮かべながら、握手の手を差し出した。園田の表情は相変わらず薄かったが、顔が緊張で強張っているのは、健一郎にもわかった。彼はおずおずと握手をしている。
 母校の先輩というのもあるし、憧れの先輩というのもあるし──緊張なのか暑さからなのかわからない汗を、園田は額に浮かべていた。
(……会ってこんだけ舞い上がれる人間って、俺にはいないな)
 言葉を交わす先輩後輩を眺めながら、健一郎は思う。
 どうしても会いたい人だとか、熱心に応援をしている芸能人だとか、部屋にポスターを貼りたくなるような、そういう存在はいない。今までもいない。
 だが友人の中にはそういう者もいて、とある友人などは好きなバンドが地方の野外フェスに出るとかで、わざわざバイトをして金を貯め、夏休みを利用して出かけてしまった。健一郎は全く知らない、テレビで見かける事はほとんどないバンドだった。曲を聴かせてもらったが、やはり良さはよくわからなかった。だが否定するほどでもないと思って、気を付けて行って来いよ、と送り出しただけだった。
 楽しそうな友人を見て、なんだか少し羨ましかった。
 自分は冷めているのだろう。
 兄の言った、目標だとか熱心にできるものが、自分もほしいという気持ちはある。
 休みの日は家で寝て、平日はただ学校と家を往復する日々では物足りないのだ、という気持ちは、己の奥底にある。
 それは自覚している。
 だが今更、どうしたらいいのかよくわからなかった。どうしたらそういうものが得られるのかもよくわからなかった。どうしたらそういうものを探し出すやる気を手に入れる事ができるのか、それも全くわからなかった。
 尊敬し、自分の中に活気とも言える熱を持ちこめる人間といえば、それは兄だったのかもしれない。
 遠い昔、兄の背を追いかけているときは、それなりに自分の中に熱があった気がする。
 ──しかし自分は、兄のようにはなれなかったのだ。

「なぁ、健一郎」
「え」
 ぼんやりと自分の思考に浸かっていたとき、兄が笑顔でこちらに話しかけて来たので、ふと我に返った。
「聞いているか? 晩飯までまだ時間があるし、園田君も退屈だろう。キャッチボールでもしにいかないかって話になったんだが」
「どうぞ、ご自由に」
「馬鹿、お前も行くんだよ」
 兄の、さも当たり前だと言わんばかりの表情に、健一郎は眉を寄せた。
「野球現役の人達と一緒にしないでよ。俺肩身狭すぎじゃん」
「あのな、こういうのはコミュニケーションなんだよ」
「体育会系のコミュニケーションに俺を巻き込まないで下さい」
「お前は体育会系に恨みでもあるのか」
 兄は若干あれきた顔をしていた。
「お前なぁ、園田君と多少仲良くなろうとか、そういうのないのかよ。お前が気遣うべきだろうが」
「まぁ、そうですけど」
 健一郎はちらりと、園田を見た。
 そう言えば、この男がどの程度野球ができる人間なのか、全く聞いていなかったような気がする。遠方からわざわざ野球の為に入学してきたような生徒だから、おそらくそこそこできるのだろうが。
「園田、お前今、背番号何番なの?」
「1」
(……先輩押さえてぶっちぎりエースじゃないか)
 短く答えた園田に、興味本位で尋ねた健一郎は言葉に詰まった。
 部内で一部の先輩から嫌がらせを受け続けたと聞いたが、恐らくそうした面でのやっかみもあったのだろう。全国からスポーツ推薦で上手い生徒をかき集め部員も多い中で、そうしたエース番号を得られるという事は、実績もあるし期待された存在という事だ。
 今回の騒動で周囲が彼を庇い気遣ったと言うのは、彼が悪くなかったという事と、彼の才能をここで潰してしまうのは勿体ないという思惑があったからなのかもしれない。
「まぁ細かい話はいいだろ? とりあえず親睦を深めようという事で。お前、まだ肩が痛いとか、そういうのあるのか?」
「いや、もう、そうでもないけど……」
 言葉を濁すと、園田が微かに首を傾げた。
「お前、野球か何かやっていたのか?」
「いや別に──」
「こいつね、昔は熱心にやっていたんだよ。怪我で辞めたけどね」
 言葉を遮る様に告げた兄の無神経な言葉に、健一郎は大きなため息をついた。