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夏の光、俺の血筋

06  ある意味魔境


 兄は実家に二泊すると、早々に大学近くのアパートに帰って行った。
 どうやら園田が見てみたかっただけらしい。母親はもう少しゆっくりしていけばいいのに、と残念がったが「夏は試合が多いから、長居できないの」と白い歯を見せながら笑う兄の姿からは、自分のような卑屈さを感じる事はできない。彼もそれなりに悩みくらいあるだろうに、そう感じさせないのはある意味凄いな、と健一郎は思う。
 そんな彼も、今や大学の三年生だ。相変わらず野球でプロを目指しているわけではないようで、卒業後はどこかに普通に就職して、将来的には実家を継ぎたいと言っていた。実家の店を継ぎたいだなんてこれっぽっちも思った事がない健一郎には、兄の思考は未だによくわからない。


 園田が来てから数日経ったある日の事だ。
 まだ夏休み中で、野球部は相変わらず活動自粛中。朝食の後、自主練をしているらしく外に出て行く園田の姿を見るのはいつもの事だったが、その日は何故か、家に戻るとジャージから制服に着替えはじめた。
「あれ、学校行くの?」
 ちょうど彼の部屋の前を通りかかった健一郎は、半袖のカッターシャツに腕を通している園田に声をかけた。数日食卓を共にして、何となく彼への拒否反応もなくなってきた。
「うん。ちょっと、重大な事を思い出して」
「重大な事?」
 シャツのボタンを留めながら、園田はこちらを見た。
「制服の冬服、寮の部屋のおきっぱだ」
「今頃……まぁ、これだけ暑いと、真っ黒な学ランなんて見たくないしなぁ」
 健一郎は呆れた声を出した。そう言えば来たとき妙に荷物が少なかったし、落ち着いているように見えたが、彼も一刻も早く寮を出たくて慌てていたのかもしれない。
「で、今から取りに行くのか? 入れるの?」
「夏休み中も寮はやっているからね。残っている友達には連絡しておいた。入り口まで持ってきてやるって」
「ふぅん」
「暇なら行く? 体育科」
 園田がこちらをからかうような視線で見てきた。多分、健一郎は来たがらないとわかっていて、そう言ったのだろう。
(確かに、俺が行くところじゃないんだけどさ)
 そうは思いつつも、言われてみると少しだけ興味がわいた。同じ高校でありながら、敷地も異なり全く別世界である場所。今まで体育科に友人もいなかったので近寄りがたかったが、園田がいるなら、ちらりとくらいは見てみたい。
「……ちらっとなら。本当について行っていいの?」
 そう言えば、園田は意外そうな顔をした。

「本当に来るとは思わなかった」
 学校への道すがら、園田はそう呟いた。今は健一郎も学校の制服に着替え、体育科のある校舎に向かっている。普通科と体育科。校舎は離れているが、制服は同じだ。
「いや、なんつーか、怖いもの見たさ?」
「お前は体育科をどんな魔境だと思っているんだよ……」
 園田は呆れた顔で、隣を歩く健一郎を見た。
「いや、実際話聞いた感じだとギスギスしていて怖いじゃん。普通科はそんな事ないし。お馬鹿の集まりだから、ある意味平和なんだよねー」
 欠伸をしながら、健一郎は言った。体育科は全国的に有名だが、普通科はそうでもない。あの学校の普通科を受けて落ちる奴なんていない、とまで言われるほど、周囲からはド底辺扱いをされている。
「うちも同じようなものだよ。プリント出しときゃなんとかなるんで」
「遠征とか多いって話だしなー。授業からして違うんだろ。……にしても、なんでこんな山の上に校舎建てたんだろうね」
 健一郎は上って来た坂道を立ち止まり、見下ろした。市街地にある普通科とは異なり、体育科の校舎は少し離れた小高い山の上にあった。山頂を切り開き、校舎やだだっ広い運動場、体育館や寮が建てられている。道の両サイドは雑木林。民家はほとんどなく、ある意味閉鎖空間のようにも見えた。
「自然に足腰鍛えられていいんじゃない?」
 だが園田は、涼しい顔で坂道を行く。息切れをしながら、健一郎は低い声を出した。
「お前らって、絶対そういうところプラス思考だよな……」
「脳筋とでも言いたいのか。お前は絶対、体育科に偏見あるから」
 真顔で言い返されて、健一郎はため息をつく。風が吹けば涼しいが、ここまでの道中でかいた汗でカッターシャツ肌にはりつき、不快だ。
そうしている間にも、園田はすいすいと急こう配の坂道を歩いて行く。根本的な体力に差があり過ぎるらしい。
(日頃から鍛えている連中は違うと言うか……夏休みに何してるんだろうね、俺は)
 健一郎は膝に手をつき、深く息を吐きだした。
 急かされる予定もなく、漫画を読みながらクーラーの効いた部屋でごろごろする至福を愛していたはずなのに、何故用もないのに制服に着替えて園田について来たのだろう? 数日前の自分では信じられない行為だ。
(兄貴にあてられたかなー)
 健一郎は、己の変化の要因を探る。
 兄が帰省していたこの数日、朝っぱらから起こされ外出に付き合わされ、思ったよりも健康的な日々を送ってしまった。動く、という事に少しだけ体が慣れたのか、抵抗がなくなってきていた。その過程で、園田ともくだらない事を話しながら、沈黙が苦痛にならない程度には親しくもなってきている。
「……でも俺、毎日この坂道上らなきゃいけないなら、不登校になりそう。いないの? そういう奴」
「そんな奴はそもそも体育科に来ない。って言うか、寮はまだ上だから毎日は上り下りしないしね」
 そう答える園田の脇を、陸上部とおぼしき集団が、足並みをそろえて坂道を走って下って行った。トレーニング中らしい。思わず、目で追ってしまった。
「すげ……」
「あれ、三往復くらいするの日課だからね。駅伝とか長距離の連中かな」
「あり得ない……別世界だなやっぱり……」
 健一郎は呻いた。ここに通っていた兄の彗は実家暮らしだったから、毎日この坂道を上って通っていたのだろう。しかし彼は、試合以外では学校を休んだことがない。
「俺、毎日通った兄貴を今すげー尊敬している……」
「あの人は凄いだろ。今言うまでもなく」
「お前も相当、兄貴の事好きだよねぇ」
 半分皮肉で言ってやったのだが、園田は当たり前だとでも言う様に笑った。
「そりゃそうだ。俺は志方さんに憧れて、ここに入るって決めたんだからね」
(あ、相当重い憧れだったのね……)
 若干引いてしまったが、さすがにそれを口に出すのは悪いと思い、健一郎は笑って誤魔化した。